◯1960〜2010年代のバレーボールを語る 6◯
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1992年バルセロナ五輪出場国
開催国 スペイン
前回五輪優勝国 EUN(ソ連)
前回世界選手権優勝国 中国(ソ連により繰上)
アジア選手権優勝国 日本(中国により繰上)
北中米選手権優勝国 キューバ
南米選手権優勝国 ブラジル
欧州選手権優勝国 オランダ(ソ連により繰上)
ワールドカップ出場国 アメリカ
以上よ 91年アジア選手権準決勝で韓国に勝って
バルセロナの切符
しかしよく取れたわよね
対韓国戦
90年アジア大会 ⚫︎
91年アジア選手権 ⚪︎
91年NHK杯 ⚫︎
91年ワールドカップ ⚫︎
しかも当時は五輪出場国は8枠だから、
アジア選手権で韓国に負けたらワールドカップで最後の1枠
それもアメリカ、ペルーとの三つ巴決戦
非常に厳しい
メダルどころか史上初の五輪予選落ちの危機
タイのアジア選手権の米田は大会中、
生きた心地しなかったでしょうね 1992年ワールドスーパー4バレー
予選リーグ
アメリカ戦⚪︎
ロシア戦⚫︎
キューバ戦⚪︎
準決勝
アメリカ戦⚪︎
決勝
キューバ戦⚫︎
最終順位
1位キューバ
2位日本
3位アメリカ
4位ロシア
バルセロナ五輪後、
92年最後の国際大会で銀メダル獲得
米田一典監督続投決定 世界一の名セッター
フェルナンダ・ベンツリーニ
90年前後にセッター転向
92年バルセロナ五輪準々決勝では
日本はフェルナンダは潰して途中で下げたけど、
控えのフォフォンにやられたわね……
91年ワールドカップでも日本はブラジルに勝ってるから、
全日本セッターの中田久美は「フェルナンダには負けていない、
フォフォンにやられたのよ!」って思ってるわね笑 https://www.youtube.com/watch?v=RNIRN6PMb6w&pp=ygUb5LiJ5bGL6KOV5a2Q44CA5rGf5LiK55Sx576O
↑この動画で三屋が江上にロス準決勝中国戦の最後の場面について語ってるけど、
三屋「最後に由美さんと久美がブロックに飛んで、
私は後方で構えてた」
って言ってるけど、逆よね
ブロックに飛んでるのは三屋と中田で、
江上がレシーブ体制に入ってたのよね
苦笑 歴代解説者で一番
国内国際情勢を理解した上で理論的な説明
いわゆる解説をしていたのは、
間違いなく
荒木田裕子よ!
生沼スミヱは優しさと思いやりのある解説だけど、
声が悪いの
中田久美は言ってることは全然大したことない
ただの感想
でも感情的だから聞いてて楽しいの
大林素子は聞きやすくて知識も豊富だけど、
自分の自己主張が強過ぎるのと私情を挟み込み過ぎなの
松平康隆、前田健、米田一典、横田忠義、葛和伸元、川合俊一などの男性陣は、興味ないわ NHK「わたしはあきらめない」より
中田久美
「ロス五輪準決勝で中国に負けて金メダルの可能性がなくなった時点で、
私の中ではロスはもう終わったと思っていました。
次はソウルだと。ソウルでは必ず金メダルを取ると。
でも周りの先輩方は私とは違っていました。
先輩方には次の五輪はない。
何としてもメダルだけは持って帰ろうと。
その先輩方の目、表情を見た時、
例え銅メダルでも勝ちに行かなければならないと思いました。」 NHK杯はキューバが皆勤賞で毎年出場してたようね
NHK杯
対キューバ戦績
83年⚪︎
84年⚫︎
85年⚫︎
86年⚫︎
87年⚫︎
88年⚫︎
89年⚫︎
90年⚪︎全日本7年振り優勝
91年⚪︎
92年⚫︎
93年以降ワールドグランプリに移行
https://ja.wikipedia.org/wiki/NHK杯全日本6人制バレーボール選抜男女優勝大会 郎平
78年アジア大会で鮮烈に中国代表デビュー
86年に現役引退
その後はアメリカに留学
90年に地元中国で世界選手権開催に伴って
89年にイタリアリーグで現役復帰
90年世界選手権後に2度目の現役引退
86年世界選手権も優勝して引退したと思われがちだけど、世界選手権はコーチとしてチームに帯同
89-90年にイタリアで現役復帰したのもあくまで地元開催の世界選手権の為の一時的な復帰だったから、
もともとそれから長く続ける気は更々なかった
ただ5年のブランクは大きく全盛期からは程遠い出来で銀メダルに沈む…… 90年〜93年の米田JAPANのベストゲームは、
91年アジア選手権準決勝韓国戦よね! >>10
81年〜86年まで三大大会全ての金メダル(5個)を持っているのは梁艶だけなのよね
鄭美珠は81年のワールドカップでは13番で惜しくもベンチ入りしてなかったわ
次点で4個なのがカ平、鄭美珠、楊錫蘭、姜英ね >>12
90年代は金メダル獲れなかった?
アトランタの銀メダルが最高かしら? 80年モスクワ五輪に日米中が出場していれば、
中国が金メダル最有力だったわけだけど、
その梁艶は80年は代表入りしてたかしら? 90年代中国女子バレー代表三大大会戦績
90年世界選手権 2位
91年ワールドカップ 2位
92年バルセロナ五輪 7位
94年世界選手権 8位
95年ワールドカップ 3位
96年アトランタ五輪 2位
98年世界選手権 2位
99年ワールドカップ 5位 >>14
梁艶は79年からナショナルチーム入りしてたから、もしモスクワ五輪に出場していたら6個の可能性があったわねw
おそらくモスクワ五輪に日中米が出場していたら、やっぱり中国が金だったと思うわ
日本内では勿論日本が金取れたと言われるけど79年から既に中国に負けていたし
もうこの頃は日ソの2強の時代じゃなくなってたしね >>16
素子
本気で女優一本でやりたいなら、
藤本隆宏みたいに俳優業一本に絞って
バレーだのスポーツだのお笑いだの歌手だの
それ以外の仕事は全て足を洗わなければ無理よ
所属事務所ホリプロも退社して
でも出来ないしするつもりもないでしょ
だから無理なのよ
大林素子=マルチタレント
これでいいのよ 80年代前半中国黄金期のセンターライン
梁艶×楊暁君って印象薄いのよね
江上由美×三屋裕子の方が上だと思うわ バレーから完全に足を洗わないと無理ってのは本当にその通りよね
女優なんて私生活見せたらそれだけで価値が無くなるような世界だし、歌手よりずっとハードル高いわ
素子の場合、私生活どころか喜怒哀楽を全部コートで見せてしまってるしね
そんな人を捕まえてまっさらなイメージなんてとてもじゃないけど持てないわよね 何でもそうだけど、
あれもこれも欲しいもの全部手に入れるなんて無理よ
本気でそれをやりたいならそれ一本に絞らないと
でもその気概が素子にあるかしら?
あるとは思えないわ >>3
90年対韓国戦は北京アジア大会のみだっけ? 1990年ワールドトップ4バレー
予選リーグ
ソ連⚫︎
アメリカ⚫︎
中国⚪︎
準決勝
ソ連⚫︎
3位決定戦
アメリカ⚪︎
最終順位
1位ソ連
2位中国
3位日本
4位アメリカ 92NHK杯と93アジア選手権の日韓戦だけは
見た事ないから見てみたいわ
どちらも勝ったみたいだけど >>12
>鄭美珠は81年のワールドカップでは13番で惜しくもベンチ入りしてなかったわ
そうなのね。 月刊バレーのW杯展望号には顔写真載ってたからベンチ入りしてたと思ってたわ。 >>25
あの時代は大きな大会では1〜12番がベンチ入りメンバーって感じだったわね
今みたいに90番台とか付けてる選手いなかったわ
ワールドカップ81の中国は13番が鄭美珠、14番なし、15番が汪亜軍(後のソウル五輪のメンバー)が登録されていたわね
ベンチ入りしてた8番の周鹿敏は全く試合に出なかったから、鄭美珠を入れていても良かったけどね >>24
バルセロナ五輪後、
初の国際大会
92年NHK杯
全日本
キューバ
韓国
北朝鮮
すごいメンツよねw イリーナ・キリロワ
「最初はフィギュアスケーターを目指していたの。
でも背が高かったからバレーを始めたわ。
14歳の時にニコライ・カルポリにスカウトされて地元から約2,000kmも離れたウラロチカに所属したのよ。
当時からセッターだった?いいえ全然(笑)。
私はもともとアタッカーだったし、スパイクを打つことが好きだったの。
でもカルポリから『君はアタッカーでも有能だけど、君の身長では今後は難しい。
でもセッターなら23歳の時にはオリンピックに出られるかもしれないよ。』
そう言われてセッターに転向したのよ。」 日本リーグ時代、日立6連覇で富士5連覇って大連荘したけど、今後そんなチームはもう出てこないかしら?
出てきたら出きたでつまらないか… 全日本=単独チームの時代よね
今はもうないでしょうね
各チーム外国人選手加入させてその選手の出来で成績が大きく左右される時代だから 92年にNHK杯が終わって
93年からワールドグランプリが始まったけど、
テレビ放送はしばらくNHKでやってたわよね?
そしていつの間にか終わって
2004年からフジテレビで放送するようになって
2007年あたりからTBSも参入して
いつの間にか放送終了してたわよね?苦笑 >>19
江上由美&三屋裕子>>梁艶&楊暁君
江上由美&三屋裕子=周暁蘭&陳亜琼 三屋裕子が話してるけど、
81年ワールドカップで彼女全国区になったけど、
もともとレギュラーじゃなく最終メンバー入りも危うかった
ただレギュラー選手が怪我をしてメンバー落ちして
三屋にチャンスが回ってきて急遽最終メンバー入りした為、
背番号が1番になったと
>>
その時の怪我したレギュラー選手って誰?
あと三屋って80年モスクワ五輪代表入りしてたけど、
この時の江上の対角のスタメンレギュラー選手って誰だったの? 81年ワールドカップは、
江上の対角は東洋紡の佐藤182cmが予定されていた。
佐藤は怪我で最終メンバー入りはしたが控えだった。
三屋の1番はユニチカのセンター石川嘉枝が付ける予定だったのでは?173cmながらブロック賞を取ったりランキング常連。ただ攻撃は鈍臭く、日立のセンターのような速さも切れも無かった。石川はワールドカップを待たずに引退したような覚えが。 80年モスクワ五輪の江上の対角センターは、富士フイルムの池知晶代。江上と同期で178cmのパワフルセンター。 小島さん推しでサイさん入れたのよ
なのにユニチカに入らなかったから何か嫌味を言われたらしいわ ↑姐さん詳しいわね
ありがとう!
やっぱりモスクワ組は不運よね……
特にモントリオールにもロスにも出ていない
小川とか水原とかその辺
まあ運命よね…… >>37
そういえば三屋は日立とユニチカからスカウトされててかなり迷って日立行ったようね
でも結果的には日立で良かったんじゃないかしら
ユニチカに行ってたらロス五輪に出られなかったわよw
広瀬美代子とは同い年で仲良かったみたいだけど 三屋裕子も波瀾万丈だけど、
何やかんやで勝ち組よね
日立とユニチカ迷っても結果日立で大正解だし
そういう所も持ってる女よね
サイ 持ってるんじゃなくて実力でしょ
わかったような口聞くんじゃないわよ
何にも知らないくせに >>33
周暁蘭×陳亜瓊の時代は、
セッターの孫晋芳が上手かったわね >>40
今や日本バスケットボール協会会長だものね
流石よね
三屋裕子 三屋裕子より八王子実践の2学年上で三冠エースだった
須藤佳代子の方が大成すると思った。
三屋はガラスのエースと呼ばれ実業団でなく大学しかも国立の筑波に進学。
日立の山田重雄監督が大学の先輩だったことも進路選択の重要な要因だったらしい。
大林素子と宮島恵子も八王子実践の2学年違いか。 >>44
ガラスのエースって言われてたのね
高校時代のサイ
何か想像つかないわね笑 想像つかないんじゃなくて何にも知らないんでしょ
三屋のガラスのエースって有名な話よ
何にも知らないのに知ったかしてんのね >>45
確かケガ多かったらしいわ
春高(?)で1回戦敗退してキャプテンを降ろされたって聞いた事があるわ >>40
勝ち組とか負け組っていう言葉は好きじゃないけど、
まあ成功者よね
三屋裕子 >>47
かなり前だけど春高開幕した時の番組で「三屋さんは春高で初戦敗退してキャプテンを下ろされたんですよね〜」ってアナウンサーがふったら、マジ切れしてたわ
「失礼じゃないですか!」ってw
これまた前には伊知子と春高の進行やってた時は、「入学前にスタンドで観戦した時は優勝して、1年はベンチに入って3位、2年で主将になって初戦敗退.....(笑)」って自虐っぽく言ってたけどね
八王子実践時代はレフトエースだったのよね でも当時の女子バレーって
高卒→実業団→全日本
これがデフォでしょ?
アスリート特に当時の女子バレーで4年って相当長いけど、
そんな中で大卒で全日本入りした三屋は異例中の異例でしょ
大卒全日本入りは三屋裕子が第一号? ミュンヘン、モントリオール五輪代表の飯田高子も中京大(たしか)からヤシカだったはず。 三屋より2学年上の全日本セッターセッター小川かず子も、池坊短大からユニチカ。 飯田も小川も大卒だったのね
そして2人ともユニチカ系
小島氏は大卒者に寛容だったのね 昔はよく覚えてけどもう忘れてるわ
言われたらそうそうと思いだすわね
屋根裏に置いてる古〜い月刊バレーボールとバレーボールマガジン見直さないとね でもヨーコの早稲田入りに反対して侮辱したのは、
当時全日本ジュニアを仕切っていた
実践の菊間と小島じゃなかった?
で、ヨーコがキレてアメリカ国籍を選択 三屋って國學院高校で体育の教師をやってたのよね
國學院高校卒のマンコが「三屋って大嫌い!」って憤慨してたわ
そのマンコが体育の授業中にクラスメイトとペチャクチャお喋りしてたら、三屋にいきなり髪の毛を引っ張られて怒られたそうよw >>58
確か肉乃小路ニクヨさん、高校生の時にサイさんに体育(バレー)教わったってゆーてたわね
それがニクヨさんは自慢なんだって
だからサイさんやバレーのこと結構好きらしいわ 私は大学で三屋先生に教わったわ。
体育のバレーだけだけど。 裕子はロス終わってすぐ辞めちゃったから、
日立の在籍期間は4年くらいよね?
五輪レギュラー選手では実業団在籍最短じゃない?
日立で 広が2年。ソウル五輪後と89年w杯後の2年だけ日立からリーグ出場。筑波大学院に籍を置きながらだったが。 >>55
飯田はユニチカ系ではない。ヤシカ、船山元監督に見出された。山田日立、小島ユニチカと三強だったヤシカ。船山全日本も見てみたかった。73w杯を指揮したがヤシカ単独チームだった。 廣は24で引退は早すぎたわね
せめてバルセロナまで居てくれたらって思うわ >>63
サイさんリーグで新人賞獲ってないの?
サイさんと加代子さんは日立同期?
加代子さんは新人賞獲ってるわ
その次の年は久美だからサイさんはどうなっているのかしら? 廣は達観してる感じがあったわね。
名古屋女子御三家の愛知淑徳だし、頭良いんでしょうけど。 裕子も紀江も教員という目標があって、
バレー界に骨を埋めるつもりはないと最初から覚悟を決めて現役送ってたけど、
そんな中で日本一のセンターに登り詰めるんだから大したものよね サイドアウト制の頃は試合時間も長いから選手生命も短かったから20代で辞める選手のが多かったわね
サイドアウト時代に常に主力で35歳まで頑張ったワイショフっていま思えば超人だったわ 長寿選手と言えば、
ガルシア、マラガなどのペルー勢
アメリカではワイショフ
ブラジルではイダ
ロシアではアルタモノワ
キューバではテリエス
そこら辺かしらね 代表最後の年齢
カロリネ 41
スコット 40
ソコロワ、フォフォン、シリバ 38
荒木、アルタモノワ、プルームジット 37
多治見、マラガ、ガルシア、デルコーレ、ヌットサラ 36
ラリーポイントになってからだと、35までは結構いるわ >>66
それは思ったけど、89年の全日本シーズン前半は学業優先して復帰後は心ここにあらずな感じだったから無理だったわね
ワールドカップもソウル五輪とは程遠い出来だったし
ソウル五輪が終わって4年後を目指すのはモチベーションを保つのも難しかっただろうし
小高宮島や素子の同期も五輪メンバーに選ばれなかったらとっとと辞めちゃったしね 98年以前と99年以降は比べられないわよね
全く別競技みたいなもんだから
素子だって97年まで現役続けたけど、
96年29歳の時は大大ベテランって思ったもの 80年代全日本組だと、
武内広子、杉山加代子あたりも現役長いイメージあるわね 明さん位知子が久美と辞め去った後も健気にずっと頑張ってるイメージ
タイムアウト中も大大ベテランなのに葛和と大喧嘩して
思わず勝気番長で強気で負けず嫌いのあのバトフチナすら
葛和とキャットファイトした明さんの肩をさすって
気を使ってたわねw
ロシア女はカルポリの暴走をずっと冷めた目で俯瞰して
氷の女の如くガン無視こいてたけど明さんは葛和の大暴走の後に
言い返して更に言い合いを繰り広げ合ってたわねw >>77
この2人は確か29歳くらいまで現役だったと思うわ
引退してたのに、23回リーグは日立の危機だったから無理矢理に練習再開させたわね
チームに帯同してたわね >>79
23回リーグって1989-90年だっけ? 杉山加代子って81年ワールドカップで既にスーパーサブとして活躍してたじゃない?
その後、紆余曲折あったけど、
10年近くそれもほぼレギュラーで現役続けたのに、
ここの姐さん達には評価低いけど、
もっと評価されてもいいと思うけど、
どうよ!? 加代子って昭和の佐々木みきなイメージ
気の弱い佐々木みきね……笑 >>80
そうそう
日立が4位に転落した時ね
氷河期 >>83
久美がキャプテンだったっけ?
やる気ない控え選手達にブチギレたリーグ戦
素子が大怪我で
紀江は引退してたかな?
89-90年シーズン >>84
久美がキャプテンだったわ
ポッキー最後のリーグよ
素子は足首のケガ?だか分からないけどハイカットのシューズ履いてたわ
キヨ-永富の意味の分からないレフト対角
ダイエーにも負け東芝にも負けたわ
キヨが新人賞で、素子がサーブ賞 杉山加代子は、THE・未完の大器なんだけどもう少しゆったりと打たせてあげたほうが良かったと思うのよ。
窮屈そうなんだもん。 >>86
タイミング悪いとも言えたかしらね
加代子バリバリの80年代後半は、
セッター久美が膝の怪我の後遺症で
レフトオープン安定して上げられなくなったものね…… >>77
万年控えの印象強いけど、
小型センターだけあって機動力は半端なかったわね
武内広子 81年のワールドカップの中国戦まさに死闘ね
セットカウント0−2からのファイナルセット15−14であのまま勝ってたらあれだけ中国への苦手意識付かなかったかもしれないわね。 >>89
「フルセットまでもつれ込んだが、所詮、日本と中国は3:7以上の開きがある」って月間バレーのワールドカップ総括号で見たような気がするわ。
2セット連取して優勝を決めた中国は3・4セットは気が抜けたようになって日本に取られたのよ。 でも優勝したとはいえ、勝って優勝するのと最後負けて優勝するのとじゃ違うわね。
3セット目は10−4から落とし、5セット目は12−6から14−15にされたから負けてたら完全優勝できなくて相当悔しかったはずよ。 >>85
観ていて辛いシーズンだったわ
前回がプレーオフで劇的優勝だっただけに余計にね
コート内はどんよりしていたし、観ていて全く勝てる気がしなかった
録画中継であっさりストレート負けして時間が余ったから、もう1試合放送した事もあったわ
確かその試合がユニチカvs日電で凄い試合だったの覚えてる
ビデオに録画してたんだけどな >>90
広瀬美代子のサーブが炸裂したなよね
中国戦だけでエース8本取ってたわ
しかも広瀬はワールドカップでのサーブミスが1本も無かったが凄かったわ >>90
それで勝ったんなら良いけど、結局日本負けんてんだからねぇw あの伝説の試合は、
5セット目から突然スタメン出場した
曹慧英のサーブにやられたわよね
彼女日本キラーだわ
そして樹理を出す必要あった?
広瀬と杉山で通すべきだったわよね
ファイナルセット >>95
それよ
私ずっと思ってたんだけど、あの大会樹理って怪我してたの?怪我明け?だか分からないけど、完全にピーク過ぎてて決まっても苦しいのよね
とんでもなくキャッチが悪かったけど、あの大会は加代子で通すべきだったと思う
とくにアメリカ戦と中国戦はね 77年は客寄せパンダだったけど、
81年小島JAPANでは一応エースという位置付けよね……?
樹理 81年ワールドカップの日中戦のスタッツ見ると楊希の名前があるんだけど、どこで出てたのかしら?
第3セット後半以降は日本に押されて中国も総動員って感じでだったわね
梁艶や張潔雲まで出したのは分かったけど、楊希はどこで出たのか分からないわ ファイナルセットは6−12から執念の粘りで追い上げ、郎平もことごとく拾われて切り返されて
同点に追いつかれ、どんどん郎平が心折れそうな顔してたわ。
14-14から再び郎平が拾われてチャンスから三屋が渾身の一撃を決めて、マッチポイント。この時中国の選手たちが敗戦を覚悟するかのような顔に変わるのよね。
次を決めれば勝利という場面で、郎平のスパイクをブロックで引っ掛けるも、杉山が追いつかずに失点。これがもったいなかったわね。
明らかに郎平が弱気になってただけに。 対郎平というか対袁偉民Chinaとの最激闘戦は、
間違いなく81年ワールドカップよね
それ以外は一方的な試合ばっかりだったから
でもあの展開、内容、敵地での勝利を見れば、
当時は中国の方が実力は一枚も二枚も上だったわね >>84
あの回のリーグに武内や加代子復帰させてたら4位には沈まなかったのかしら?
練習に参加させて遠征にも帯同させてたけど結局使わなかったわ
山田先生は何を考えていたのかな? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています