▼膳場貴子さんのマン毛を見たい(4本目) ▼ [無断転載禁止]©bbspink.com
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膳場貴子さんのマン毛は濃いと思う。
面積が広い。縮れ具合が強い。太い。 舛添都知事は早く辞任すべきだ 無職 宇都宮貞文 愛知県 77
舛添要一・東京都知事が政治資金を私的流用したという疑惑に対する釈明会見は、極めて見苦しいとしか思えない。
都民の反応は大変厳しい。
このような状態で現職にとどまったとしても、都政が滞るだけではないだろうか。 大統領が原爆投下に謝罪は当然
NPO法人代表 清水一憲(群馬県 38)
オバマ米大統領の広島訪問で「原爆投下を命じたのはトルーマン。
オバマ大統領の謝罪は必要ない」との奇論が出ている。
だが、原爆投下は大統領の権能において命じた大虐殺。
犠牲者は1945年末までで広島14万人、長崎7万4千人。
民間人殺害を禁じた国際法に明白に違反する。
現職大統領が謝罪するのは当たり前だ。
原爆で虐殺された人々の無念を思うと、私は全身の血が熱くなる。 過去への謝罪より未来志向を
無職 小口弘恭(東京都 82)
日本人の多くは原爆を落とした米国に過去への謝罪を求めるのでなく、未来に向けた建設的関係を築こうとしてきた。
どんな戦争も、背景にはそれぞれの国の事情がある。
だが、それにこだわれば戦争に至るという愚かさを、日本人は強い痛みをもって知っている。
この記憶が世論を未来に向けた建設的なものにした。
大統領の広島訪問が日本人の心を世界に知ってもらう機会になることを期待したい。 核廃絶の歯車、謝罪で進めて
フリー編集者 市野宗彦(東京都 71)
1970年代初め、広島平和記念資料館を訪れた。
館内の感想ノートに「NEVER FORGET HIROSHIMA」「I AM SORRY」などの字が並び、
それぞれ「US ARMY ○○」と署名があった。
ベトナム戦争のころで、休暇中の米兵の書き込みと思われた。
展示の語る核兵器の恐ろしさが、ベトナムでの残酷な体験と重なったのかもしれない。 オバマ大統領の広島訪問は、軍の最高司令官が核の恐ろしさを認識するという意味で意義はあろう。
だが、米国が原爆投下を「謝罪しない」とのスタンスを変えていないことは、看過できない。
何十万という市民の上に原爆を落としたことが過ちでないのならば、これからも戦争で多数の市民を巻き添えにしても当然ということになるだろう。
大統領が広島ではっきり謝罪することで、核廃絶への歴史の歯車を進めてほしい。 謝罪要求は建設的ではない
無職 中村雅俊(神奈川県 79)
8月の広島と長崎での原爆犠牲者の追悼は、原爆投下国を恨み、憎しみを再確認する日でも場でもない。
犠牲者を悼み、地獄のような悲惨さをもたらした核兵器を二度と使用しないこと、このような狂気に人を駆り立てる戦争そのものの根絶を誓うものだ。
それは犠牲者を軽んじたり、被爆の悲惨さを薄めたりしているわけではない。
核兵器の残忍さという広島・長崎の体験を普遍化させ、世界の平和実現と核廃絶への努力を再認識することこそ、犠牲者への最大の供養なのだ。 オバマ大統領から原爆投下について直接的な謝罪がなくても、普遍的な観点で核廃絶への一歩が示されるなら、これこそが犠牲者への追悼と慰めだ。
核廃絶を願う世界の人々の長年の地道な努力に、力を与えるものになる。
謝罪要求は建設的なものとは言い難い。 謝罪求めぬが正当化もしないで
大学生 長田もも世(京都府 21)
高校2年生のときに広島を訪れた。
広島平和記念資料館に展示された遺品や写真は衝撃的だった。
リアルに悲惨さが伝わってきた。言葉が出なかった。
原爆投下で広島と長崎がどれほど大きな被害を受けたか、人々がどれほどの苦しみ、痛み、無念を味わったか。
このことを私たちはもっと知らなくてはいけないし、絶対に忘れてはならない。 アメリカでは「原爆投下で終戦が早まり、多くのアメリカ人の命が救われた」という主張が根強いと聞く。
だが、原爆で多数の市民が犠牲になり、20万人以上が亡くなったのもまた事実である。
そこを直視しないで「あれは正しかった」と言われると、どうしても納得できない。
アメリカに謝罪は求めない。
だが、どうか原爆投下を正当化することはしないでほしい。
広島と長崎の痛みを感じてほしい。そして共に平和を誓ってほしい。 日米首脳は戦時の過ちを認めて
無職 和田静子(沖縄県 81)
オバマ大統領が広島を訪れ、原爆死没者慰霊碑に献花するという。
安倍首相も同行する予定だ。2人はどんな所感を述べるのだろう。
碑に刻まれた「過ちは繰返しませぬから」に主語はないが、原爆を投下したのは米国の過ちだ。
また、天皇制という国体護持にこだわって敗戦の決断を遅らせ、原爆投下の口実を与えたのは日本の過ちである。 原爆投下に先立つ沖縄での地上戦の時点で、すでに日本の敗戦は必至だった。
だから、米国の「原爆によって戦争終結の時期を早めた」という言い訳は通用しないと私は思っている。
オバマ大統領と安倍首相には、2人そろって「米国は、日本は、過ちを犯しました」と明言してほしい。
そうすれば、「核なき世界を」という訴えに、国際社会は耳を傾けてくれるだろう。 あちこちで再発防止繰り返し(神奈川県 平松健)
在る限り原発・基地が持つリスク(東京都 後藤克好)
保育所の不足対策待ったなし(香川県 田岡弘) 家計簿 ...
朝日川柳 西木空人選 ...
コンシェルジュ 管理人ならおりますが(埼玉県 吉野信幸). 島の名を汚さないでと賢島(岐阜県 桑原宣彰)
サラリーマン川柳なるほどそうきたか (東京都 武藤昌平) 3世代同居、ご免こうむります 主婦 高橋智子(東京都 58)
「3世代同居はいいよ」という声を聞きます。
私は、自分の子が結婚して同居したいと言ったら、ご免こうむります。 老いの生きざま見せる教育の場 無職 植松與悦(山形県 85)
私は3世代同居に賛成だ。
うちは息子夫婦、孫と3世代で同居中。
孫は小1と保育園年長の男の子2人。
家の中は毎日運動会。
家具の傷は痛々しい。
兄弟げんかもしょっちゅう。
でも成長の一里塚と考え、大人は気にしない。 孫教育はお嫁さん中心。
私と妻は口を出さない。
役目は、とことん孫と遊ぶこと。
至福を感じ、良寛様の気分。 難しさ知るから1人の安楽選ぶ 主婦 水野美那子 (広島県 83)
「3世代同居 ご免こうむります」に共感する。
私は戦時中、4世代同居だった。
父が召集され、母と一緒に祖父母宅に転がり込んだ。
曽祖母もいた。
やんちゃ盛りの私たち3人を子守した祖母のたいへんさが、今は分かる。 嫁に圧力 国の誘導には疑問 主婦 小嶋千恵美 (兵庫県 58)
投稿された方のお気持ちはよく理解できます。
私は小さい頃、父方の祖父母と両親、兄、父の弟妹たちという計11人の大家族でした。 同居を無事に 私の心得4ヵ条 主婦 姫田晶子 (茨城県 77)
我が家は23年前、共働きの息子夫婦と同居を始めました。
やがて孫が生まれ、3世代同居に。
この間、私は四つのことを守ってきました。
@台所は2世帯別々。食事も別々(お祝い事や休日など、例外の日も)。
Aお互いの生活に干渉しない。 Bお嫁さんの批判やグチを外に話さない(問題があれば家庭内で解決する)。
Cしゅうとめは孫の母親の座を奪わない(子にとっては母親が第一)。
以上を守り、無事に過ごしてきています。 舛添氏批判は集団いじめの面も 日本語教師 中村維男(東京都 71)
東京都知事を辞める舛添要一氏は、語学堪能で決断力、行動力もあり、ある意味、有能な知事だった。
日本人の政治家としては珍しく国際感覚が優れているとの評価もあったようだ。
私もそう思っていた。
今回の問題では、横領をしたわけでも、巨額の賄賂を手にしたわけでもない。
今までに判明したところでは、公私混同が多かったというだけだ。 それにしては、ニュースなどで毎日、批判が続いた。
放送界は、自民党政権に対する批判に及び腰になっているともいわれる。
もしそうなら、その反動が一気に舛添氏に向かったようにも見える。
舛添氏は問題が発覚した当初、素直に謝らず、批判を突っぱねていた面があった。
それで都民の拒絶反応が強く出たのだろう。
しかし、テレビなどの取り上げ方からは、弱くなった者を集団でいじめる日本独特の醜い面も感じた。 いずれにせよ、こうなった以上、次の知事は東京五輪・パラリンピックに向けて、重責を担うことになる。
「舛添氏より悪い」と言われないように新知事を選びたい。 都知事は18歳を裏切らないで 主婦 福田悦子(東京都 53)
2人続けて、1期目の途中で辞職に追い込まれた東京都知事。
東京都民として、とてもくやしく、残念でなりません。
7月には18歳、19歳の若い人たちがはじめて投票する記念すべき参議院選挙があります。
私たち大人は、その人たちに「選挙に行こう」と呼びかけています。
けれども舛添要一都知事の一連の公私混同問題は「どうせ投票しても、当選後は有権者を裏切り、何をしているかわからない」
という悪いイメージを、若い人たちに与えてきたのではないでしょうか。 声)燃費の抜き打ち検査、実効性は 非常勤職員 加藤八郎(愛知県 66)
自動車の燃費不正問題を受け、国土交通省が燃費審査の改善案をまとめた。
メーカーに対して抜き打ち検査をするというが、本当に実効性がある検査ができるかどうか、疑問だ。
そもそも行政が行う立ち入り検査は抜き打ちが基本だ。 声)沖縄の怒り悲しみ受け止めたい. 主婦 浅見美奈子(福島県 55)
元米海兵隊員で軍属の男が沖縄県うるま市の女性を殺害した容疑で逮捕された事件に抗議する県民大会の記事を読みました。
参加者が掲げた「海兵隊は撤退を」のボードの波は、胸にせまるものがありました。
女子学生が「日本本土にお住まいの皆さん。今回の第二の加害者は誰ですか。あなたたちです。
しっかり沖縄に向き合っていただけませんか」と呼びかけました。
その通りという思いでいっぱいになりました。 (声)「ヤング民主主義」実現しよう(2016/06/23朝日新聞)パート 市川進(静岡県 76)
18歳以上に選挙権年齢を引き下げる改正公職選挙法が施行され、国政選挙では参院選から適用される。
選挙権を得る18歳、19歳は約240万人。私は、若い世代の有権者が政治を活性化させるよう期待している。
現状を見ると、20代の投票率は他の年代より低い。
前回の参院選で20代は33・37%で、最も高かった60代の67・56%の約半分。全体の52・61%と比べてもかなり低調である。
日本の政治は投票率が高い高齢者向けの政策に重点を置く「シルバー民主主義」と指摘されている。
若者の意見を政治に反映させるには、若い世代の投票率アップが不可欠だろう。 若者が政治に関心を高めて投票率が上がれば、若年層向けの政策も検討せざるを得なくなるだろう。
奨学金の問題、賃金格差の解消、子育て、介護、財政再建など日本を担う若い世代の課題に、政治はより以上に真剣に向き合うはずだ。
政治を「シルバー民主主義」から「ヤング民主主義」に変えよう。
そのスタートが参院選だ。
思えば、明治維新やフランス革命、アメリカ独立に際して、第一線を担ったのは10代後半から20代の若者だった。
多くの若者が投票に行き、日本の政治の夜明けを告げてほしい。 (声)自由に政治語るのは当然なのに会社員 萩原理(埼玉県 36)
さいたま市の市民活動サポートセンターを訪問した。
利用のしおりを見ると、市民活動団体登録の要件として「政治上の主義を推進し、支持し、またはこれに反対することを目的とする活動」は、市民活動から除かれるという記述があった。
市が市民団体「安保関連法に反対するママの会@埼玉」を「市民活動団体には当たらない」と判断し、利用者登録を「不適切」とした一件を思い出した。
ママの会のメンバーが参院選に向けて、落選運動を活動の目的の一つにすると発言したことが、特定の候補者や政党に反対することを目的とする活動に当たると市が判断した問題だ。 私は市のこの判断も、しおりに書かれている内容も異常だと感じている。
市民一人ひとりが日常生活の中で、政治や法、社会制度に賛否を表明するのは当たり前のことだ。
だが現状では、さいたま市の例に見られるように「政治的」という文言を盾に、
思想や信条、集会の自由を侵害している空気が強まっているように感じる。
私は、生活の中で自由に政治を語れる世を望む。 (声)私94歳、麻生氏発言に強い憤り 無職 広瀬彰(東京都 94)
「90歳になって老後が心配とか、わけの分かんないこと言っている人がこないだテレビに出てた。
オイいつまで生きてるつもりだよと思いながら見てました」麻生太郎副総理兼財務相が、講演会でそう話したという。
94歳の私は強い憤りをおぼえた。私たちの年代は、多くの仲間を戦争で失っている。戦後は拾った命だと思って、皆が「戦友の分も」と働いた。
私は今、戦争体験の語り部として、その悲惨さを孫たちにずっと語り伝えていきたいと思っている。「いつまで生きているのだ」と言われては……。
麻生氏は、自身の祖母が「カネは一切息子や孫が払うものと思って、使いたい放題」だったとも語ったという。
消費が伸びないので、貯蓄のある高齢者に消費を促したい意図のようだ。 しかし多くの高齢者は、息子や娘が生活に追われて、親の面倒をみる余裕がないことを知っている。
だから、子に迷惑をかけないように消費を抑えながら、少ない年金でつましく生活しているのが実情である。
庶民の苦しい生活を知らない人が、閣僚の地位にいる。
年寄りの心配が、また増えた次第である。 朝日新聞 声 高齢者が貯蓄する理由教えます 無職 大矢領一 (静岡県 66)
自民党の麻生太郎副総理兼財務相が、高齢者は貯蓄するよりもお金を使うべきだという趣旨の発言をしたそうです。
その通りかもしれません。
日本の個人金融資産1700兆円のうち60代以上が約1千兆円を保有しています。
これを惜しみなく使えば好景気に沸き、国の借金も 朝日新聞 声 麻生氏へ 国民は老後が心配 会社員 近藤喜夫 (愛知県 59)
80代半ばの父は、近年入退院を繰り返しています。
先日がんを宣告され、今も入院中です。
「毎日食べて寝るだけ。大好きな映画館にも行けない。こんなになって生きていかなければいけないのか」
と愚痴をこぼす日も増えました。 アベノミクス考 実感はどこに
取り残された氷河期世代 久我尚子さん(ニッセイ基礎研究所准主任研究員)
アベノミクスの3年間で、確かに雇用全体は増えています。
しかし世代や男女、地域によって差があり、すべての人が恩恵を受けたとはいえません。
世代間や地域間の格差はむしろ広がっています。
一番恩恵を受けたのは55〜64歳の層です。安倍首相の就任直後の2013年1月と16年3月を比較すると、
この層の人口に対する雇用者比率は49・0%から55・0%に6・0ポイントも増え、他の年代と比べて突出しています。
高年齢者雇用安定法が改正され、13年4月から65歳まで働けるようになったことが大きいのでしょう。 若い世代の雇用も改善しています。
15〜24歳では正規雇用者の比率が1・6ポイント増と、非正規の0・8ポイント増の倍も増えました。
新卒の内定率も上がり、特に女性が高くなっている。
「女性の活躍促進」が非常に追い風になっています。 一方で、厳しい状態のままなのは、35〜44歳の子育て真っ盛りの「就職氷河期世代」です。
正規雇用はほとんど増えていません。
特に男性が厳しく、正規の比率は0・9ポイント減で、正規・非正規の合計でも減少しています。
企業業績が多少よくなっても、採用が増えるのは新卒や第二新卒。
氷河期世代の男性は、アベノミクスの恩恵から取り残されています。
地域差もあります。
円安株高で収益が上がったのは大企業や自動車関連が多いので、南関東や東海は雇用がいいんです。
他の地域では、特に氷河期世代の雇用がより厳しくなっています。
世論調査で地域間格差について聞くと、「広がっている」という回答の割合が3年前より増えています。 賃金は全体として上昇しています。人手不足の影響が大きく、非正規のアルバイトでも時給が上がっている。
でも30歳以下の若い世代は、物価上昇前に家計の実収入が増えた時期でも支出は増えていない。
アベノミクスが将来の不安を払拭(ふっしょく)するまでにはならず、消費には結びついていません。
その上の氷河期世代になると、そもそも収入があまり増えていないので、支出を控えざるをえない。
一方、60歳代は、家計収入は増えていないのに、消費が増えた時期がありました。
この世代でも将来への不安は強いのですが、金融資産の保有率がずっと高いので、株高などの恩恵を受けやすく、消費意欲が増したのだと思います。 世代内でも、正規雇用と非正規雇用の格差が開いています。
特に男性では、既婚率と年収が比例しているので、経済的な格差が家族形成状況の差に直結します。
既婚率と年収の関係をグラフにすると、カーブは年収300万円台で急に上がるんですが、それは非正規雇用と正規雇用の境目です。
雇用の不安定が、未婚率上昇の大きな背景になっています。 「1億総活躍プラン」では、希望出生率1・8という目標が大きく掲げられています。
しかし、少子化政策の入り口である若年層の結婚を支援する施策が乏しいと感じます。
雇用の不安定が未婚の大きな原因なのに、非正規雇用率を何%まで下げるといった数値目標がありません。
既婚の人たちが第1子、第2子をもうけるのを支援する点ではかなり具体的な政策が走っていますが、正規雇用など比較的強い立場にある人たち向けのものが多い。
育児休業給付金の引き上げや男性の育休取得促進にしても、非正規だと育休が非常に取りにくく、恩恵を受けられるのは正規中心になってしまいます。 同一労働同一賃金も打ち出されていますが、それだけでは十分ではありません。
若年層が家族形成に踏み切れないのは、単に目の前の収入が違うというだけではなく、5年先、10年先の安定が見えないからです。
若い世代の将来への不安を減らし、氷河期世代の苦境を救うためには、数値目標を設定して現在の非正規から安定した雇用への転換を促す政策が必要でしょう。
(聞き手・尾沢智史) 久我尚子(くがなおこ) 1976年生まれ。専門は消費者行動、心理統計、金融マーケティング。
著書に「若者は本当にお金がないのか? 統計データが語る意外な真実」。 声)定番スパゲティは「このまま」で(2016/06/19). 喫茶店経営 志賀美穂子(愛知県 65)
「リレーおぴにおん」(15日朝刊)でスパゲティナポリタンを語る日本ナポリタン学会会長が出ていました。
42年間喫茶店を営む者として興味深く読みました。
文中の、鉄板に溶き卵を敷いたスパゲッティ「イタリアン」は、うちの店でも開店当初からずーっと一番人気です。 声)語りつぐ戦争 軍馬とともに600キロの強行軍. 無職 桜井栄一(宮城県 95)
軍隊では馬と行動を共にする機関銃中隊に配属され、1942年春に中国の中部に派遣された。
隊には10頭余の馬がいた。
重さ60キロの機関銃や弾薬箱を背に載せて運ぶのが馬の役目。
馬なしでは一歩も進めないので大切にした。
「兵隊は消耗品、馬は兵器」で、何事も馬が優先。
通常の行軍は45分歩いて15分休むが、兵が腰を下ろすのは、馬の荷を下ろし、水を与えてからだった。 翌年、中隊を一時離れ、連帯の馬40頭を船で移す任に当たった。
護衛艦と偵察機がつき、軍馬の貴重さを実感した。
だが翌44年春、連隊が中国南部に転進する船に護衛はなく、我々下級兵士にも敗色が濃いことが察せられた。
転進後、中国大陸を縦貫する大規模な作戦に加わった。
中でも南部・柳州の飛行場攻略のための進軍は、11日間で600`歩く強行軍。
食糧補給はなく、途上の民家で米や豚を奪い、畑の芋を盗んで飢えをしのいだ。
穀物を見つけては、10頭余の馬に与えた。 疲労困憊し、雑嚢の家族写真1枚さえ重く感じられた。
夜間行軍では眠りそうになり、馬の尻尾を手に巻き付けて歩いた。
馬は嫌がりもせず引っ張ってくれた。
終戦で中国軍の武装解除を受けた。
馬たちは別れを察してか、しきりにいなないた。
あの馬たちは帰国できたのだろうか。 (声)語りつぐ戦争 日の丸で弁当包んだら叱責 無職 笠原俊夫(福岡県 83)
日中戦争のさなか、尋常小学校2年生のときのことである。
小学校は福岡県小倉市(現北九州市)にあった。昼食の時間に私は弁当を出した。
担任の若い女先生がつかつかと近づいてきた。
怖い顔をしていきなり、弁当を包んでいた布を取り上げた。
「これは、日の丸の旗じゃないの!」。強い口調で叱責(しっせき)された。
私は訳がわからず、きょとんとしていた。
その布は確かに、ハンカチより一回り大きいくらいの日の丸だった。
たまたまその日だけ母が弁当を包んでくれたのだ。
罰として教壇の上に正座させられる羽目になった。
弁当を広げていた同級生たちもあっけにとられ、ぽかんとした顔でこちらを見ていた。
あとで母が学校に呼ばれ、厳重注意された。 当時、小学校では毎日、朝礼の時間に日の丸を掲揚し、皇居に向かって最敬礼で遥拝(ようはい)していた。
日の丸は敬うべき対象で、弁当を包むなど不敬にあたる行為だった。
だが、そんなことを2年生の子供が分かろうはずがない。当時の軍国主義は、小学生だろうと容赦しなかった。
「反国家的行為」はどんな小さな芽も許しはしなかったのである。
国民を侵略戦争へと駆り立てた教育を端的に示すものとして、忘れられない。 (声)語りつぐ戦争 病の母のために牛乳求めたが…無職 河西千恵子(東京都 89)
戦争中は養父母と3人暮らしでした。
実母は私が1歳になる前に亡くなり、あちこちに里子に出された後、子供のない遠い親戚が養女に迎えてくれたのです。
養父は勝負事が好きで、頼りはこの世でたった一人、養母だけでした。
その母が病気になってしまったのは、終戦の2年ほど前でしょうか。
肺の病でした。よい薬もなく医者は「せめて牛乳を飲ませてあげられれば」と言いました。
「このままでは死んじゃう」。
私は悩んだ末、近くの牛乳店にお願いに行きました。
お店にいたのは、白い割烹(かっぽう)着姿の太ったおばさんでした。
「病気のお母さんに牛乳を売っていただけませんでしょうか」。 夢中で頼みましたが、「あんたに売る牛乳なんか1本もないよ」。
奥のガラス扉越しに牛乳が見えました。
ところが、「軍関係に納める分しかない」とけんもほろろ。
母はなんとか命を永らえましたが、あのときの悔しさは忘れられません。 声)語りつぐ戦争 2日の差で広島原爆逃れた 無職 朝川広男(広島県 90)
陸軍軍属だった私は45年7月、横浜から広島に転属。
広島しないの国民学校を借りた職場で働いていた8月4日、召集令状を受け取った。
広島県尾道市の商業学校内にある「暁第16709部隊へ船舶兵二徴集」「8月10日8時入営ヲ命ス」。
その日のうちに40`離れた安芸高田市の実家へ帰りあいさつをし、準備をしていた。
2日後の6日朝、広島原爆投下。間一髪で逃れた。
安芸高田は被災しなかったが、広島市方向にもうもうと湧き上がる大きな雲を見た。 それが「原子爆弾」だったと知ったのは戦後のことだ。
1日速い9日に尾道入営。
商業学校校舎の建物外壁は、敵機の攻撃を避けるために黒い塗料で完全に擬装されていた。
同時入営の47人は陸軍2等兵だった。
兵団長から統率方針を教示され、さっそく尾道の沖合、岩子(いわし)島との間を上陸用舟艇で往復する訓練に明け暮れた。
15日昼の玉音放送のことは、後で耳にした。 声)語りつぐ戦争 中国内戦、一家7人の逃避行. 主婦 遠藤信子(京都府 82)
戦時中、私たち一家7人は旧満州(中国東北部)の安東市(現遼寧省丹東市)にいました。
戦後はソ連軍の進駐と、国民党政府軍と共産党八路軍との国共内戦で混乱。
45年8月の終戦後数カ月は外出もままならず、父の知人であった中国の方の助けで生き延びました。 秋ごろからは、私が父とたばこや大福餅の行商をして、母の着物を売って食料を得ていました。
46年10月23日、近くの鴨緑江に日本人会が手配した20隻ほどの木造船が集まりました。
約2千人の日本人が各県人会ごとに分かれて乗り込みました。 「無理です」の理由まず聴いて 無職 伊藤智子 三重県 52
「声」欄で「『無理です』と簡単に言わないで」(5月22日)を読み、自分が銀行員だったころを思い出した。
当時は部内で一番年下。
上司や先輩から仕事を言いつけられると、すでに自分の仕事が山ほどあっても引き受けていた。 声)「第三者委員会」の呼称おかしい. 無職 桑野毅(東京都 79)
舛添要一・東京都知事(当時)の公私混同問題、東京電力の福島第一原発事故に関する問題と、「第三者委員会」の報告が続いた。
両者に共通するのは、依頼側の関係者からのみのヒヤリングを基にした調査であり、裏付けも不十分で、極めてずさんな内容であることだ。 かたえくぼ
『英 国民投票』
離せば分かる
-----離脱派
(小平・星酒) (声)沖縄の不条理解消を訴え続ける主婦 新谷ミサヲ(神奈川県 69)
私の故郷は沖縄だ。
元米海兵隊員による女性殺害容疑事件に抗議する沖縄県民大会が6月19日にあったが、参加できない自分をふがいなく思っていた。
そんな時、夫の友人から声がかかった。
「沖縄に呼応して、住んでいる場所で訴えてみませんか」。
日頃から沖縄のことを考えて下さるその方に感謝しつつ、街で呼びかけることにした。集まったのは14人。
日米両政府に抗議するチラシを配り、問題解決への対応を求める署名を呼びかけた。
全く無視して通り過ぎる人が多かった。 つかつかと寄ってきて「どうせ左翼なんでしょ」とすごむ女性もいた。
一方で「沖縄の事件はひとごとではありません」と進んで署名してくれる人もいて、心が和んだ。
1時間ほど呼びかけて集まった署名は、64人分だけだった。
沖縄と本土の温度差がいかに大きいかを再認識することになった。
しかし、たとえ小さな声だとしても、沖縄の不条理が解消されるまで声を上げ続けねばと思いを新たにした。 参院候補は財政問題を語れ 貸しビル業 近藤邦康 (愛知県 73)
今わが国が直面している最大の問題は、国の借金が1千兆円を超えて、なお増え続けている異常な事態ではないか。
このままでは、やがては財政破綻の危機に直面するかもしれない。
そうなれば英国の欧州連合(EU)離脱よりも、はるかに大きなショックを世界経済に与えることになるだろう。
国の借金のことは政治家も国民もすでに知っている。
だから我々国民は、将来に不安を抱え続けているのであり、いざという時に備えて財布のひもを緩めないだろう。
大事な預貯金を使うわけにはいかないのである。 若年層のため負担の見直しを(2016年7月4日). 社会福祉法人職員 後藤大輔(宮城県 44)
選挙権年齢が18歳以上に引き下げられて初の国政選挙となる参院選なのに、各政党の主張にがっかりしている 。
この機会に、医療費の個人負担率の引き上げ、年金の引き下げ、高額商品への課税など、高齢者や富裕層の利益に反する政策を打ち出す政党はないだろうか。 娘へ、思いを一票に託して 高校教員 中川了之(北海道 56)
18歳になった我が娘へ。
普段教えている生徒には選挙に行くよう呼びかけている父ですが、遠く離れて暮らす自分の娘には、何も話さなかったことを反省しています。
欧州連合(EU)からの離脱を選んだ英国の国民投票でも、残留を支持した若者が投票後もしっかり意思表示しています。
あなたにも、学ぶ場を東京に求めた行動力があります。
ぜひ、選挙に行ってその思いを一票に託してほしいと思います。 団塊世代の良心と知性を一票に 木工業 成瀬良一(岐阜県 67)
人生には時代の大きなうねりに直面した時、時代を生きる者としての役割分担や立ち位置があるように思う。
今回の参院選において、私たち団塊の世代の役割は何だろう。
日本国憲法の下で戦中派を親として生まれ、
戦争の理不尽さを聞き、戦後の平和教育で平和憲法を学んだ。
その崇高な理念は、この世代の魂の深奥に浸透している。 その視点から現在の政治状況を観察すると、私たちの感覚とかなり大きな「ずれ」があるように思われる。
この「ずれ」を軌道修正することが、高齢者になった団塊の世代の役割ではないだろうか。
戦後70年、国際社会で平和国家として歩んできた自信と誇りを、21世紀を生きる子供や孫に伝えていきたい。
安心、安全な22世紀の日本への道筋を構築していきたい。 成長を追い求める経済政策が連呼されているが、物質文明の限界を悟る時代にさしかかっているとも思う。
これらをじっくり考察した上で、参院選では、団塊の世代の良心と知性を傾注して、主権者としての一票を投じたい。 理想か現実か、平和めぐる選択. 国立研究開発法人研究職 國分健太郎(東京都 47)
平和には2種類ある。
皆が武器を持たず、争いの無い真の平和と、軍事力のパワーバランスの上に成り立つ仮の平和である。
今の世界は後者。
いわば「現実の平和」だ。
前者は「理想の平和」と呼べるだろう。
両者の方向性は正反対だ。
「理想の平和」は永続的だが、「現実の平和」は、軍事バランスが崩れれば、悲惨な戦争が口を開けて待っている。 沖縄の怒りに向き合いたい 大学名誉教授 胡口靖夫(東京都 75)
「沖縄の叫びを受け止めたい」(6月30日)を読みました。
元米海兵隊員による殺人容疑事件に抗議する沖縄県民大会に参加した、東京の大学生の投稿です。
炎天下、私も大会に参加して、沖縄の女子大生の肺腑をあぐるようなスピーチを聞きました。 中学校教員 遅い帰宅に驚き 無職 森谷佳子 (三重県 66)
息子が昨年、中学校で教育実習をした。
帰宅が夜10時、11時になることもしばしばで驚いた。
担当の先生もご苦労だったと思う。
しかしその先生は、中学教員は徹夜するのも珍しくないと話していたと聞いた。 知り合いの娘さんが念願の中学校教員になり、希望を持って働き出したのに、やはり帰宅が夜10時、11時になっているという。
疲れ切って希望も失いかけていると聞いた。
管理職は、早く帰るようにと言うそうだが、先輩教員が誰も帰らないので、新米教員はなかなか帰れないという事情もあるという。 朝日新聞 ひととき
イチロウニナレ
兵庫県三田市 百田千鶴(パート 54歳)
高校1年生の息子が、学校から進路希望の用紙を持って帰ってきた。
受験したい大学名と学部を書かなくてはいけない。
高校受験がやっと終わって3カ月ほど。
将来の仕事や大学受験のことは、まだ漠然としていて決まっていない。 憲法論議に正確な情報は不可欠 無職 宗近弘武(東京都 76)
参院選の結果、改憲に賛成する勢力が3分の2を超え、改憲に向けた政治的な動きが現実味を帯びてきた。
自民党の真の狙いは、憲法9条の改定だろう。
それが実現したら、日本はどうなるのか。
国民は明確にイメージし、憲法論議に参加していきたい。
その際に不可欠なのが、正確な情報だ。 先に英国の「チルコット委員会」は、自国の2003年のイラク戦争参戦を検証し、報告した。
主だった内容は「軍事行動は当時、最後の手段ではなかった」「戦後テロの脅威が増すことは警告されていた」
「戦後のイラクの安定化への考慮が不十分だった」などである。
政権から独立した、歴史学者や元外交官らによる中正・プロフェッショナルな報告だ。
あらゆる機密文書へのアクセス権限も与えられていた。 声)アベノミクスに代わる政策を. 無職 荒牧信允(茨城県 74)
「アベノミクスは着実に成果をあげている」という自公政権。
「アベノミクスは破綻(はたん)している」という民進、共産などの野党共闘4党。
選挙結果はアベノミクスが支持された形だ。
しかし、与党側が選挙戦で都合の良い数字ばかり強調した面はないだろうか。
異次元の金融緩和と財政出動で円安は進んだ。 首相は批判票の数にも目向けて 大学非常勤講師 佐々木真砂子 (秋田県 54)
秋田選挙区で再選を果たした自民候補が「県民はやはり政権を託すのは自民、公明だと投票してくれた」という趣旨の発言をした。
これを聞いて、私のようにこの候補に投票しなかった有権者の思いは切り捨てられるのではないかと危惧した。
秋田でこの候補が獲得したのは約29万票。
約25万人が他候補に投票した。
約25万人もの意見を切り捨てていいはずがない。 介護離職」防ぐ体制作り急務 無職 西山雄二郎(神奈川県 71)
私が以前勤めていた会社の40代の後輩が「介護離職」し、ショックを受けました。
会社の事業を支え、部下から尊敬される人物でした。
東京で働きながら静岡県の両親、福岡県の義理の母の所を行き来して介護していたそうです。
働き盛りの人による介護は珍しくなくなりました。
しかし、参院選の論戦の中心はアベノミクスでした。
候補者の訴えからは国民が抱える介護問題の真の危機が伝わってこず、いらだちました。 政治家の行動検証が今後の義務 経営コンサルタント 齊藤紀夫(愛知県 70)
参院選は、与党圧勝、改憲勢力が3分の2の議席を占める結果に終わった。
今回から選挙権を得た18、19歳も、半数は比例区で自民・公明に投票したという調査結果が出ていた。
若者も含め有権者は、改憲問題はさておき、現状の景気や雇用など経済問題への不安から「アベノミクス」に投票したのだろう。 パンドラの箱開けたのは私たち(埼玉県 小島福節)
改憲もそんなに言うならやりますか(東京都 みわみつる)
ふかせるか試させてみるいい度胸(東京都 藤井明)
18歳もて囃(はや)されて夏休み(徳島県 吉田正勝) 一筋の光明新知事反原発(東京都 大和田淳雄).鹿児島・三反園氏。
ピーナッツ小さな花が閉じました(神奈川県 藤田万両) 伊藤ユミさん
これだけでいいとジャンボミニを買う (和歌山県 大西隆栄) 語り継ぐ戦争
元保健婦 前田黎生(あけみ)さん(98)
「お客さん」 名古屋市内の八百屋の2階で下宿していた私を階下から呼ぶ声がした。
同時に5人ぐらいの男が上がってきた。
「ちょっと聞きたいから来てくれ。すぐ帰す」。
特高の刑事で、連れて行かれたのは警察署だった。
1936年(昭和11年)12月、容疑は治安維持法違反だった。 (当時非合法の)共産党へのオルグ(加入)活動をしたというのです。
号外には(共産党員を手伝う)「ハウスキーパー」と載っていたそうです。
看護学校を卒業したばかりの18歳。
学校時代の友人の影響で、昼間はタイル工場で絵付けをし、夜は金山駅前の通称、無産者診療所へ通った。 診療所には(召集や逮捕により)医師はおらず、軽い病気や生活の相談に乗るだけだが、貧しい人らが大勢訪ねてきて、生きがいになっていた。
今のボランティアみたいなもの。共産党員でもなかった。何も悪いことはやっとらん。
「何で黙っとる」。取り調べは最初、きつかった。おどしたり、すかしたり。
でもよく聞かれるが、拷問はなかった。
だんだん刑事も私のことが分かったんでしょう。 銭湯や外国船の見学へ連れ出されたり、留置場が足りなくなると宿直室へ移されたりした。
お客さん扱いです。これならいつ釈放されるかな。そう思っていたら8ヵ月後、起訴です。びっくりした。
刑務所に移され、独房で仏教書を読んだり、女性看守に漢詩を教わったりしt。
月に一度、裁判所(現在の名古屋市政資料館)へ連れていかれた。
釈放されたのは逮捕から4年後です。
(保護司の)学者の紹介で、設立されたばかりの名古屋市の保健所の保健婦になった。 当時は「産めよ増やせよ」の時代。
洗濯場のおしめを目印に乳児のいる家を片っ端から訪ね、母子の栄養、健康の指導をした。
「ええことやっとる」と思っていた。だが保健所も戦争体勢に組み込まれていた。
2階では徴兵間近の若者の体力測定もしていた。
廊下に世界地図を貼り出し、日本軍の占領地に旗を立て、「勝った、勝った」とみんなで喜んでいた。
(逮捕された)経歴のことは私も黙っていたので、ほとんど誰も知らなかったと思う。 同僚と結婚した。
夫は体が弱かったのに、空襲の度に市庁舎に詰めたり、遺体の片付けに駆り出されたりした。
過労で肺に穴があき、戦後すぐに亡くなった。
「保健婦なのになぜ気づかなかった」と周囲から責められた。
幼い子どもを抱えた私は戦後、復職し、保健婦の仕事に打ち込んだ。
全国研修会「保健婦のつどい」を企画したり、「戦争と医学」の勉強会に参加したりした。 特高の刑事には戦後、再会しています。
高校生の息子が補導され、警察署に行ったらいるじゃないですか。
「あっ」と驚いたが、私に謝りもしなかった。
そんなものです。 沖縄慰霊の日 憲法考える機会 無職 日野資純 (静岡県 90)
23日の「沖縄慰霊の日」を前に、東京の中高生が沖縄戦を考えるイベントを企画したという。
戦中派としてうれしい。
旧制高校生だった1944年10月、本紙の「那覇殆ど灰燼に帰す」という見出しの記事を読んだ。
那覇が無差別爆撃を受けて焼け野原となり、150人余りが死傷したと伝えていた。
私は、沖縄が陥落するならおそらく本土決戦になる、日本の勝利は無理だと直感した。 政府は沖縄で敵を破ると言っていたが、戦況は正反対だった。
米軍は沖縄に上陸し、県民の4人に1人が死んだ。
戦力差のある米国や英国などとの開戦自体が誤っていた。
今の若者には「個人の尊重」を明記する憲法13条の意味を、十分に考えてほしい。
戦前の憲法では、国を統治するのは天皇だとされた。
個人尊重の考え方はなく、国民の命は軽んじられた。
多くの若者が戦地に送られのだ。 沖縄慰霊の日は、そのことを考えるよいきっかけだ。
中高生たちが、戦争の実態と非人間性を体得し、戦争拒否の現憲法を実践し、
日本の平和を守り抜いてくれることを、心から望んでいる。 ポツダム宣言読まぬのは無責任 無職 日野資純 (静岡県 89)
安部晋三首相は共産党の志位和夫委員長との党首討論で、ポツダム宣言について「つま
びらかに読んでいないので直ちに論評することはさし控えたい」と述べた。
ポツダム宣言 を受託したからこそ今の日本がある。発言は無責任だ。
宣言は軍国主義の駆逐を求めている「日本国国民を欺瞞(ぎまん)し之をして世界征服の
挙に出づるのを過誤を犯しめたる者の権力及勢力は永久に除去せられざるべからず」とあ
る。 「ポツダム宣言の認識を認めないのか」と志位氏が問うたのは、特にこの部分を指すと
思う。首相として、こういう基本的な論点を知ることは当然だ。
今、あの戦争を肯定的に捉える勢力が一部で力を得ようとしているように見える。
しかし、自国民と他国民の人間性を根底から破壊する戦争を観念的にせよ肯定的に見るのは間違っている。
空襲で死の一歩手前を経験した身として、絶対に受け入れられない。 「戦陣訓」繰り返さぬように=無職・日野資純・90
太平洋戦争が開始された年、1941年1月。
当時、陸軍大臣だった東条英機は戦場での兵士の心得の基本として「戦陣訓」を示した。
その内容は、
(1)必死の訓練を経て、必勝の信念を確立せよ
(2)名誉の尊重のため、絶対に捕虜になるな
(3)戦死しても遺骨が帰らぬことがあると、家族に覚悟させよ
(4)自分の不摂生で戦闘に支障が出ぬよう、心がけよ−−
などで、これらの訓戒を軍の兵士に通達した。 しかし、
(1)は、必勝の信念の保持は軍だけでなく国民全体に強制され、私のような当時の中学生たちにも重く響いたが、それで勝てるとは非科学的だった。
(2)は、戦場では捕虜になる前に、自決が多発し戦死者が激増した。
(3)は、遺族の心情がこれで収まるはずもなく、その影響は現在までも続く。
(4)は、兵士の人権軽視そのものだった。
こんな非条理な「戦陣訓」で、先の戦争は戦われた。
今後は、絶対にこんな訓戒が再生されないよう、年頭にしっかりと考えたい。 「米国に勝てるのか」抱いた不安(2015/12/08朝日新聞)無職 日野資純(静岡県 89)
1941年12月8日。
旧制中学2年生だった私は、日米開戦を学校の朝礼で知った。
その時の強烈な印象がよみがえる。
校長が緊張感漂う様子で、天皇の詔書を読み上げた。
私は「米国のような大国に勝てるのか」と不安を抱いた。
だが、その後の「大戦果あがる」との報道で打ち消され、単純に「勝てるぞ」との思いに変わってしまった。
当時の自分の気持ちが、最高に悔しい。
学校でもマスコミでも
「必勝の信念で戦え。日本は日清・日露戦争でも勝ったから、今度も勝つ」
というような非論理的発想が、多くを占めていた。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています