【歴史】偉人たちの処性術 モテ男はつらいよ!70代で20代愛人妊娠させた西園寺公望 不倫疑い追い出し母親に乗り込まれる[08/04] [無断転載禁止]©bbspink.com
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0001逢いみての… ★2017/08/04(金) 01:25:42.62ID:CAP_USER
早見俊の『偉人たちの処性術』

西園寺公望(きんもち)、従一位公爵、内閣総理大臣、そして最後の元老、位人臣を極めた政治家です。
数え二十歳の時に戊辰戦争が起きて従軍、明治維新となって軍人を志しました。

が、大村益次郎から法律を学んだ方がいいと助言を受け、フランスのソルボンヌ大学に入学、若き東洋の貴公子はパリジェンヌに大変モテたそうです。
帰国後、伊藤博文の腹心となり政治家の道を歩みます。

一方で文学にも造詣が深く、神田駿河台にあった自邸に大勢の作家を集めて宴を催し、文学論を戦わせることもありました。
もちろん、日本でもモテにモテ、西園寺自身も大変な女好きでしたから、東京の花柳界では、「お寺さん」と愛称され、人気者でした。
そんな西園寺ですが、生涯独身を貫きました。西園寺家の家訓で結婚が禁じられていたためです。

西園寺家の家業は雅楽(琵琶)で、歴代当主は音楽の神様である吉祥天を正妻としたため、側室しか置くことができない定めがあったのです。
西園寺は家訓に従い妻は持たず、これ幸いと思ったのかどうかは不明ですが、一生を通じて四人の妾(めかけ)を持ちました。

一人目は新橋の芸妓だった小林菊子、気品があり気転が利く美人であったそうです。

二人目はやはり新橋の芸妓であった中西房子、一女をもうけ、西園寺は、「妻に似たもの」と呼び、新聞は「北の方」と報道していました。

三人目は女中であった奥村花子で、西園寺は第一次世界大戦のパリ講和会議に出席する際、同伴しました。パリでは西園寺の愛妾と言われていました。

四人目は京都の大泉寺の住職の娘、漆葉綾子、華道、茶道に通じ西園寺家に仕えて女中頭となりました。

花子をパリに連れて行った時、西園寺は七十歳、花子は二十三歳でした。
七十六歳の時に花子は娘を産みましたが、西園寺は花子の不倫を疑い、自分の子だとは認知しませんでした。

更に三年後、花子は若い男の子供を身籠りました。
周囲から説得された西園寺は花子を家から追い出します。

ところが花子に母親と共に抗議に乗り込まれました。
時に西園寺公望、七十九歳、「モテ男もつらいよ」という目に遭ったのでした。

以下ソース
http://www.dansen-web.com/article/detail/2251677/

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