【歴史】偉人たちの処性術 高杉晋作 肺結核の看病を巡って鉢合わせになりそうになった妻と妾の間でおろおろと[09/01] [無断転載禁止]©bbspink.com
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0001逢いみての… ★2017/09/01(金) 01:56:01.17ID:CAP_USER
早見俊の『偉人たちの処性術』

幕末の風雲児高杉晋作、短くも波瀾万丈の生涯を伊藤博文が、「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目がいぜんとして敢えて正視するものなし、これ我が東行高杉君に非ずや」と碑文にしました。

吉田松陰の松下村塾の塾生ですが、他の塾生たちが長州藩の下級武士であったのに対し、彼だけは名門藩士でした。
従って妻雅子も藩の上士の家の出、ところが高杉、家に居つくことなどありませんでした。
松下村塾系の長州藩士たちのリーダーとなり、攘夷、倒幕運動に奔走し続け、雅子と同居した月日は延べ一年半程であったそうです。

高杉は志士活動中、遊郭や花街で派手に遊び、よくモテました。「三千世界の烏を殺し、主と朝寝がしてみたい」という都都逸は高杉晋作が作ったとされています。
最愛の女おうのと出会ったのも下関の妓楼でした。

おうのは芸者で、大変におっとりとしていましたが取り立てて美人ではありませんでした。
一方、妻雅子は貞淑でしっかり者であることに加え、萩城下一の美女と評判でした。
生まれ、人柄、容貌すべてに正反対の二人でした。

もっとも高杉は高杉家の当主という立場を決しておろそかにはしませんでしたから、雅子のことも粗略には扱ったわけではありません。

そんな雅子とおうの、肺結核を患った高杉の看病を巡って鉢合わせになりそうなことがありました。高杉は病そっちのけでおろおろとしたそうです。
雷電の如き行動で幕府を翻弄した英雄児が、妻と妾に慌てさせられたとはおかしいですね。

高杉死後、雅子は貞淑を守りましたが、おうのは芸者に復帰しようとしました。
長州藩を救った英雄の愛人が芸者ではまずいと、伊藤博文や山県有朋たちが尼にして高杉の菩提を弔わせました。

明治になってから雅子は伊藤たちの援助を一切受けませんでしたが、おうのは手厚く面倒をみてもらいます。
雅子は高杉の遺児と共に東京に移住し、おうのは長州にあって高杉の墓を守り続けました。

人生も正反対の二人でしたが、高杉死後、二人は手紙のやり取りをし、おうのが上京した時は雅子の家に逗留しています。
地下に眠る高杉は妻と愛人の交流をどんな思いで見ていたのでしょう。

以下ソース
http://www.dansen-web.com/article/detail/9071707/

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0002夜更かしなピンクさん2017/09/01(金) 02:19:41.34ID:B7hvSRAp
幕末志士は屑ばかり
0003夜更かしなピンクさん2017/09/01(金) 02:50:19.84ID:96tGnNF1
自分の家族もきちんとできない人間が世界国家の戦略とかないわw
0004夜更かしなピンクさん2017/09/01(金) 07:32:04.78ID:CK3caJkU
幕末志士は夜の剣術も盛んだったんですね
0005夜更かしなピンクさん2017/09/01(金) 07:37:13.92ID:wo6jtlEM
朝鮮人が結核を持ち込んだんじゃね
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