早見俊の『偉人たちの処性術』

最終回です。
最後を締めくくるのは日本史上最大のスター、織田信長です。

信長の性癖と聞くと森蘭丸に代表される美童を愛したイメージを抱く読者が多いかもしれません。
では、信長は美少年好きだったのかというと必ずしもそうではありませんでした。
信長が寵童としたと噂されるのは蘭丸の他に前田利家、佐々成政がいます。二人とも勇猛果敢な武将でした。

また、信長の妹、お市は戦国一の美女と評判されていますね。
信長はお市を北近江の戦国大名浅井長政に輿入れさせましたが、この時、お市は二十歳、当時としては晩婚でした。
このことから、信長はお市と近親相姦に及んでいたという噂があります。

噂を裏付けるのが若き日の信長が、「うつけ」と呼ばれていたことです。
うつけとは元来がからっぽと言う意味で、それが転じて暗愚さを表す言葉になりました。

ところが、うつけにはもう一つ近親相姦をした者を批難する言葉であったとする説もあるのです。
男色といい近親相姦といい現代から見ると信長は性生活も極めて個性的だったようです。

では、正室とはどのような関係だったのでしょうか。
信長は多くの側室を持っていましたが、正室は斎藤道三の娘、濃姫だけでした。
濃姫とは不仲だったという説が有力でしたが、近年夫婦仲を示す史料が発見されました。

濃姫の死を看取った信長が当代一の絵師狩野永徳に濃姫の肖像画を描かせ、天皇から国師号を贈られた名僧快川紹喜に法要を営ませたというのです。
そして、紹喜は濃姫を「岐陽太守鍾愛の夫人」と日誌に記しています。

岐陽太守は信長、鍾愛とは深く愛するという意味です。つまり信長は濃姫を深く愛していたと紹喜は書き残したのです。
冷酷非情と思われがちな信長の一面を知る、ほんわかするエピソードですね。

ところがその後、武田征伐の際、甲府の恵林寺の住職となっていた紹喜を織田勢は寺ごと焼いてしまいました。
「心頭滅却すれば火もまた涼し」とはこの時の紹喜の言葉です。

織田信長、本当に業の深い男であったのですね。

一年間、お付き合い頂きましてありがとうございました。

以下ソース
http://www.dansen-web.com/article/detail/7175222/

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