戸叶和男『日本奇習紀行』

今でも一部の地域では、村長・庄屋などの家系である者が、絶対的な権力を握り続けているケースは少なからず存在しているが、かつて西日本のとある地域においては、当地に根ざしたとある宗派の僧が、近隣に住む村人たちを虐げ、あたかも領主であるかのような振る舞いを行っていた時期があったという。

「私も死んだじいさんに、子どもの頃に聞いた話だから何とも言えないけれども、昔、このあたりじゃ坊さんがやりたい放題だったらしくてね。そう、ここから見えるだろう? あの山のちょっとへこんだところ。あのあたりに寺があってさ。そこの坊主がとんだ生臭坊主だったそうだよ」

当地にかつて存在していたという、“生臭坊主による乱行”と、それを黙認する慣習についてそう証言するのは、現在も当地で暮らす農業・山本三郎さん(仮名・83)。山本さんの話によると、その“生臭坊主”の典型ともいうべき僧は、僧体でありながらも酒色に溺れ、まさに“やりたい放題”の日々を送っていたという。

「昼間から酒を飲んで女を抱くなんていうのは当たり前のことだったそうでね。けれども、しばらくすると、それで飽き足らなくなったと見えて、その坊さん、ときどき山を降りてきては物色して、ちょっといい女を見かけると、それが他人の女房だろうが、年端もいかん子どもだろうが、その場で犯しちゃうようになった。じいさんの話じゃ、それこそ昼間っから着物の胸元と裾をはだけさせた若い娘がね、呆然とした表情で、そこいらの畑の脇に転がっているだなんていうのはしょっちゅうだったそうでね。けれども、その坊主がやっていた寺っていうのは、なんでも霊験あらたかなんだそうでね、そういうおかしなことをやらかされても、みんな見て見ぬふりをしていたそうだよ」

そもそも“霊験あらたかな寺”の僧侶が、昼間から酒を飲んだり、女を抱いたりしているという時点で呆れるばかりだが、挙げ句、村人の大切な妻や娘にまで手を出していたというのだから、開いた口が塞がらない。しかも、そうした生臭坊主による乱行を、村人たちは「天狗が降りてくる」(山本さん)と、天狗による振る舞いに喩えつつ、なぜか黙認し続けていたというのだ。

「ここいらじゃ大昔から天狗信仰みたいなのが強かったようでね。それを代々祀ってきた寺だったから、そういうことをされても誰も文句が言えなかったんじゃないかな。信心深いこと自体は、悪いことじゃないんだろうけれども、それが行き過ぎるとね、ああいう愚かな坊主を奢らせることになっちゃうんだろうと思うよ」

現在でも、カルト宗教団体の教祖的な立場にある人物が、そのコミュニティ内において絶対的な権力者として君臨し、こうした“酒池肉林”を絵に描いたような日々を送っているという話は、それこそ洋の東西を問わずしばしば耳にするが、どうやら当地におけるこの生臭坊主の場合も、ご多分に漏れず、そうした輩であったと言えそうだ。

「もっともね、そうした行いが祟ったのか、それとも、天罰が下ったのかはわからないけれども、ある日の真夜中、いきなり寺が火事になってね。その時に、その坊主も一緒に焼け死んだっていう話だよ。じいさんの話じゃ、その時ばかりは村の連中も、誰一人、火を消そうとしなかっただけじゃなくて、半鐘ひとつ鳴らさずにね、それこそ村中の家が、朝までひっそりと戸を閉ざしたまんまだそうだよ」

それまで、当地において絶対的な権力を持っていたにもかかわらず、たった一夜にして、寺ごと姿を消すこととなってしまったという、当地の生臭坊主。天狗の仕業か、天罰か。火の不始末か、不審火か。今となってしまえば、その真相でさえも、藪の中である。

以下ソース
http://tocana.jp/2018/03/post_16167_entry.html

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