中世に描かれた屏風絵『洛中洛外図』の中に、白人宣教師やその従者と思しき黒人の姿が描かれていることや、戦国武将・織田信長が、自ら「弥助」と名づけた黒人侍を傍に置いていたことからもわかるように、日本には比較的古い時代から、アジア人以外の外国人が暮らしていた。しかし、本能寺の変を境に行方をくらましたという弥助がそうであったように、その大半は時代の変遷と共に姿を消し、その後、どうなってしまったかも、今では判然としない。しかし、日本各地を隈なく探していくと、彼らの末裔と思しき人々が、ごくわずかではあるものの、存在していることに気づかされる。

「うーん、ウソかホントかって言ったら、私らだって断言はできないけどもさ。でもね、昔からそういう伝説っていうのかな、言い伝えみたいなのがあって。実際ね、今でもこのあたりで生まれ育った人間の中には、普通の日本人というか、東洋的な顔立ちじゃない人間も結構いるんだよ」

日本海側に位置する近畿地方のとある海沿いの小都市に住む川島善三郎さん(仮名・87)は、当地にかつて隠れ住んでいたという外国人とその末裔について、自身の祖父から聞かされたという、数少ない生き証人の1人だ。川島さんの話によると、彼らは15世紀後半〜16世紀にかけて起きた宣教師たちの“渡来ブーム”の際に来日した外国人たちの末裔で、その多くは前出の弥助と同じく、宣教師たちの祖国・ポルトガルが支配していたアフリカのモザンビーク周辺から連れてこられた黒人であったという。

「私も歴史はあまり詳しくないものだからね、なんとも言えないけども、信長とか家康がいた頃に、そういう人らが外国から結構来たんでしょう? 要はね、そういう牧師さんみたいな人が連れてきた黒人がさ、戦国時代の動乱みたいなのに巻き込まれてね、四散して。その中の何割かがね、それこそ平家の落人みたいにね、村人に匿われて生きながらえたっていう。そういう話みたいだね」

たしかに、信長の家臣として登用された弥助と同様、彼らの大半は戦国の世が太平の世へと遷り変わる最中で消息を絶ち、祖国から遠く離れた日本の地で人知れず亡くなったとされてきた。しかし、その最盛期に来日した人数を考えれば、全員が全員、揃いも揃ってひっそりと死んだと考える方が無理のある話かもしれない。

「これはあくまで伝え聞いた話だから、なんとも言えないけれどもね、大昔にね、落ち延びてきた黒人はね、私ら日本の人間に比べて体格も良いし、力持ちでしょう? だからね、農作業なんかの時には活躍できるし、なにせ、“あっち”がスゴいでしょう? だからね、強い血を残すんだっていう目的でね、土地の女たちと交わらせて、“あいのこ”(現在は「ダブル」とも呼ばれる)をたくさん作ったっていう話なんだよ。要はそういう子たちのね、子孫だから、ここいらの人の中には、今でも顔立ちの違うさ、そういう人らがいるっていう話よ。それに、江戸時代に入るとね、ここいらの領主の中には、生まれながらに病弱でね、なかなか子宝に恵まれずにお家断絶の危機を迎えたお殿様もいたみたいでね。そういうお殿様のご家来衆がだね、村に匿われている外人さんと、お殿様の奥方を交わらせたりしていたっていう話も聞くぐらいだよ。もちろん、“お忍び”でなんだろうけれどもね(苦笑)」

無論、川島さんの話は、あくまで“口伝”として語り継がれてきた話だけに、そのまま鵜呑みにすることは危険だが、戦国期に来日し、その後、「いきなり姿を消したことになっている」外国人たちの不自然さや、当地に今なお数多く存在しているという“濃い顔立ちの人々”の姿を合わせて鑑みると、どこか頷けることも事実だ。

以下ソース
http://tocana.jp/2018/06/post_17136_entry.html

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