江戸時代の元禄年間には、歌舞伎の女形として修行中の少年が、陰間茶屋と呼ばれる料理屋で、事実上の男娼としてその肉体を提供するビジネスが急速にブームとなったとされているが、実はこうした少年愛者に対する性風俗店というのは、その後、幕府による取締りが行われた後も秘密裏に続けられ、その一部は、なんと昭和初期まで存在していたのだという。
「もともとこのあたりは見ての通り、今でも寺や神社ばかりの土地柄でしょう? だからそういう店もね、こっそりと続けられていたのだと思うんですよ」
江戸の芳町や麹町といった陰間茶屋のメッカから、そうした店が姿を消した後も、脈々と生きながらえてきた“陰間商法”についてそう証言するのは、近畿地方のとある地域で生まれ育ち、今なお、老舗呉服店の主人として店先に立つこともあるという、大村寿三郎さん(仮名・87)。大村さんの話によると、その昔、当地とその周辺では、元禄年間の陰間茶屋に近い“裏ビジネス”が昭和初期まで続けられていたのだという。
「今じゃ随分と減ってしまいましたけれどもね、料理屋が多いでしょう? 今でも。そういうところでね、常連さん相手に、男の子をね、手配するっていう習慣が古くからあったそうで。お客はね、大抵はこのあたりの偉いお坊様やら、大店の旦那さんあたりなんですけれどもね、要はそういうお客さんの“お相手”をする、と。そういう商売ですね」
大村さんの話によると、当地ではその昔、一部の富裕層を対象として、“お忍びのお楽しみ”として、少年たちに男娼として売春をさせるという裏ビジネスが横行していたのだという。とはいえ、江戸時代に「陰間」と呼ばれた“見習い中の女形”がそれほどいなかった時代に、一体どのような境遇の少年たちが、男性客の相手をしていたというのか。
「……ああ、今の人からすればピンと来ないでしょうけれどもね、昔は丁稚奉公に来ている子たちが結構いましてね。要はそういう子がね、小遣い稼ぎにやっていたんですよ」
現在もそうであるが、大村さんが店を構える地域は、古くから栄えていたという街。かつてそこに軒を並べる店の多くは、地方の寒村から出稼ぎと商売の勉強に来ていた少年たちが「丁稚」として、数多く暮らしていたという。しかしそれが「奉公」である以上、彼らがもらえる賃金はそうお多くなく、自分の生活を切り詰めるだけでは、実家への仕送りもままならなかったことから、こうした“小遣い稼ぎ”をするのが通例化していたのだそうだ。
「まあ、そうは言ってもね、女の人もそうでしょうけれども、男だって、大人に近づいてきて、薹が立ってくると、自然とお客は減っていくものですからね、稼げる時期はそう長くないんです。だから大抵の場合は、15、6(歳)になる頃には“引退”ですよ」
当時を知る大村さんによると、“人気者”の少年ともなれば、一晩に一カ月分近いの生活費を得ることができていたという当地の裏ビジネス。それだけ聞くと、羨ましく思える人もいるかもしれないが、彼ら丁稚少年たちが、身を削って得た金の大半を郷里への仕送りに充てていたことを思えば、なんとも胸の痛くなる話である。
以下ソース
https://tocana.jp/2018/10/post_18135_entry.html
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