6月11日発売の『週刊文春』で、複数の女性と不倫が報じられたアンジャッシュの渡部建。さらに6月25日発売の同誌で独占インタビューを受けた渡部は、神妙な様子で「今でも妻を愛しています」と語りました。

 裏で女性たちと遊びまくりながら、「妻を愛している」なんてありえるの?AV男優の森林原人さんはどう見るのか聞いてみました(以下、森林さんの寄稿)。

 愛の本質は感情でしょうか? 欲望でしょうか? それとも意志でしょうか?

 昨今の流れからすると、芸能人や著名人の不倫がバレたら、家庭内の問題だけでは済まなくなるとわかっているのに、どうしてしてしまうのでしょうか? アンジャッシュ渡部さんによる“多目的トイレ不倫”を取り上げながら、愛の本質を考えてみたいと思います。(週刊文春の記事内容に基づき僕の独断と偏見で考察します。)

 渡部さんがしていた不倫は、相手を1人の人間(女性)としてではなく“物”としていたところが特徴です。

 相手の呼び出し方(いきなりホテルに呼び出す)、場所の選択(多目的トイレ)、セックスの内容(行為の内容)、渡す金銭の額や渡し方(10,000円をバッグの上に置く)、相手に投げかける言葉(「こんなにリピートするのはB子だけだよ!」)、帰らせ方(シャワーを浴びる間もなく追い出す)。ずばり、性欲処理の道具として活用していました。

 渡部さんのこの言動の根っこにあるのは、恋愛感情ではなく性欲という欲望であり、欠けていたのは、相手にも自分と同じレベルで意思や感情があるという当たり前のことでした。

 なぜこのような思考になったかを推測すると、“全能感”という言葉が思い浮かんできます。全知全能の神という言い回しをする時の“全能”感です。

 渡部さんは、不倫相手に対して自分が上の次元にいる存在だと思っていたのでしょう。自分が人なら相手は物。相手が人だとしたら自分は神。上の次元にいる自分は全てをわかっており、下の次元にいる存在を思うがままにできるんだという全能感を持ってしまったのではないでしょうか。

 それが「全能の俺はこれぐらいしてもいい」「全能の俺の秘密が暴かれることは無い」「全能の俺とセックスできる相手は恵まれている」といった錯覚を生み出しました。

 これは、社会的な成功(芸人・タレントとして売れたこと、社会的評価の高い女性を妻にしたことなど)を思い描く通りに手にしたことや、自分の評価や選択が権威を持つ状態(グルメや高校野球等に関して影響力を持つ立場)になったことから生まれたと想像されます。

 そして、その背景には、他者からどう見られているのかという自意識の高さがあり、それは、他者からの評価を自己評価の根拠にしてしまう自己肯定感の脆さが根深くあった気がします。

 社会的成功や他者からの高評価によって自尊心を育み、自分軸をしっかりとさせていく人がいる一方で、自尊心の高まりが驕り(おごり)となり全能感に変化してしまう人もいるのです。俳優の大滝秀治さんの言葉に「自信の上には奢りがあり、謙虚の下には卑屈がある」といったものがあるのですが、まさに自信の上に行ってしまったのでしょう。

 この奢りという全能感が、今回の不倫を生理的に拒絶する女性たちが感じた気持ち悪さの正体です。

 ではここで、少し前に話題になっていた東出さんの不倫と比較してみます。

 東出さんの不倫は、相手が1人で、そこには少なからずの恋愛感情があったと思われます(深く考察すると、自分が優位でいる心地よさの支配欲であったりもするのですが、ここではそこまで考えません。詳しくは過去のコラムをお読みください)。

 この前提のもと、「東出さんの不倫と渡部さんの不倫、どちらが許せないか?」と女性に聞くと、「どちらも許せない」という答えが圧倒的多数ですが、「どちらかと言えば?」と再度問えば「東出の方が許せない」という意見が多いです。その方たちの理由のほとんどが「東出は心まで裏切ってるけど、渡部はただ体だけだから」といったものでした。

続く

以下ソース
https://joshi-spa.jp/1016249

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