0001逢いみての… ★
2023/02/23(木) 22:43:02.84ID:CAP_USER「笑瓶さんは大阪芸大芸術学部文芸学科卒業後、24歳の時に笑福亭鶴瓶に弟子入りして芸能界入りしました。大学4年の時に5歳年上の鶴瓶さんの深夜ラジオ『ぬかるみの世界』を聞き、その面白さに惹かれて、ラジオ大阪の前で出待ちをして弟子入りを志願したそうです。1年半後、正式に弟子と認められ、鶴瓶さん司会の毎日放送『突然ガバチョ!』のレギュラーとなってブレイクしました」(芸能記者)
当時、大阪の芸人が大きく飛躍するためには、二度売れる必要があった。関西でブレイクしても、東京で売れなければ全国区と認められなかった。だが、大阪の人気者が東京進出をしても、その壁に跳ね返されることも珍しくなかった時代。鶴瓶も関東で売れるまでには時間が掛かった。しかし、笑瓶さんは東京でも瞬く間に売れた。
「1985年、漫画『はいからさんが通る』が三田寛子さんの主演でフジテレビで単発ドラマ化されました。この時、印念中佐というキャラクターに似ているという理由で笑瓶さんにオファーが来ました。撮影で上京した時に、『突然ガバチョ!』の出演場面を編集したビデオをテレビ局のスタッフに渡して売り込むと、『鶴ちゃんのトッピング』(日本テレビ)と『爆笑一気族』(TBS)のレギュラーが決まった。そこから一気に売れっ子になり、『夕焼けニャンニャン』『オールナイトフジ』(フジテレビ)など、一時はレギュラー15本以上を抱えるまでになりました」(前出・芸能記者)
鶴瓶は1987年、『笑っていいとも!』(フジテレビ)のレギュラーとなって、ようやく東京で知名度が上がっていった。笑瓶さんは、師匠よりも早く全国区の人気を得ていた。
「笑瓶さんはどうしたら売れるかを常に考えているような、研究熱心な人だった。トレードマークの黄色いメガネも、視聴者に顔を覚えてもらうための作戦の1つ。自己プロデュース力があり、番組に自ら企画を提案して採用されたこともあった。また、自分の立ち位置を瞬時に見分ける能力に長け、引き出しも多いので、志村けんさんや明石家さんまさん、ダウンタウンなど、MCを務めるような大御所にも愛されていました」(テレビ局関係者)
59歳の時、ものまねタレントの神奈月たちと千葉県のゴルフ場でプレーをしている最中に胸の痛みを訴え、救急搬送された。一命を取り留めたが、この時も急性大動脈解離が発症していた。生前、笑瓶さんはこんな死生観を語っていた。
〈新聞の片隅に訃報・笑福亭笑瓶って出たときに「ああ、あのメガネが死によった」って。そう言ってくれる人が多ければ、うれしい。
そんな話していたら、浜ちゃん(※編集部註:浜田雅功)が「にいやんは黄色いメガネかけとかんと、にいやんやない。だから、にいやんが先に逝ったら、棺桶開けて黄色いメガネかけさすからなー」って言うてくれてね。「悲しいこと言うなや」と応えつつも、ある部分、うれしいことでしたよ。芸人として。死んだ後にもキャラが残るというのは、ね。〉(『BIG tomorrow』 2003年3月号)
笑瓶さんは、こう話した後、稀代の芸人を羨んでいた。
〈さんまさんなんかが横山やすし師匠のものまねをやっているでしょう。そんなん見ると、師匠は亡くなっても、そのキャラクターだけは息づいている。素直に「すっごいなぁー」と。あれが伝説の芸人さんやなと思うわけです。自分もあそこまでいけるかなぁ。無理かな。どうかなぁ……と。
ただ、自分はあそこまではいかなくとも、曲がりなりにもお笑いという自己表現で生活できるまでのカタチになった。それでいいやと思ってます。〉(前出・BIG tomorrow)
思いもよらないタイミングで、突然の笑瓶さんの訃報に、驚き、哀しんでいるファンは少なくないはずだ。しかし、笑瓶さんの生んだ無数の笑いと、その笑顔は、人々の記憶に長く残り続けるだろう。
以下ソース
https://www.news-postseven.com/archives/20230223_1844026.html
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