0001逢いみての… ★
2023/11/28(火) 22:10:14.38ID:CAP_USER* * *
池田氏は2010年5月までは本部幹部会に出席していたが、翌月の会合にはその姿がなかった。同年11月にアメリカの大学での名誉博士号の授与式に出席したのを最後に、表に出なくなった。
13年間にわたる“不在”は学会員からも「年齢からして何らかの体調不良でもおかしくない」と囁かれてきたが、内実は謎めいていた。
2016年の朝日新聞のインタビューで池田氏の体調を問われた現会長の原田稔氏は「元気にしておりますよ。執筆活動などに専念しています」と答えていたが、実際に“動く池田氏”を見ることはできず、その不在は学会員やメディアの関心の的だった。裏返せばそれだけ絶大な存在感があった。
直に接した“怪物”はどんな人物なのか。「幼少期から250回以上会ってきた」と言うのは、創価学会元理事長の正木正明氏を父に持つライターの正木伸城氏(42)だ。創価中学時代、突然来校した池田氏がゲーム大会を始めた思い出を話した。
「ルーレットで出た番号によって景品をもらえるゲームですが、回す最中から池田氏はいたずらっぽい笑みを浮かべていました。すると案の定、『最初の当選者は池田先生です!』の声にガッツポーズ(笑)。すぐに『というのは冗談で』とばかりに、今度は生徒に当てさせ景品を渡していました。電撃訪問と言いながらわざわざ楽しい茶番を仕込んでくる。人を笑顔にさせることに熱心な人です」
他方、選挙や教勢拡大には貪欲で「勝利至上主義」の布教活動現場の学会員の活力だった。学会活動に熱心な企業経営者の男性(60)はこう語る。
「俺は池田先生の『人間革命』を読んで人生変わった。先生が勝ち目のない敵地でも乗り込んで行って戦う姿に心を打たれたから。戦う実践ってところが、哲学の本とかと違う。先生の言葉に従って選挙の実践をしていると、人生がいい方向に行っているのがわかる」
この男性の話が興味深いのは、池田氏に倣って選挙で勝つことが、宗教的な価値になると自然に感じている、という点だ。
池田氏が1960年に三代会長に就任した際には140万世帯だった会員数がその後、現在の規模にまで急膨張を遂げたのは、この池田氏の求心力によるところが大きかった。“選挙勝利”が宗教的な価値と合体する独特のメカニズムは理屈というより、池田氏の個性の中でこそ結びつく物語なのだ。
池田氏の不在は、集票マシンとしての創価学会の機能を鈍化させる。
「かつては先生の一言で組織は動いた。でも先生の発言がないと、過去の発言を引用して“こう言っていた”と伝えるしかない。でも、それで“動いて”と言うのはちょっと無理があるよね」(前出の男性経営者)
そもそもなぜ池田氏は表舞台から姿を消さなければいけなかったのだろうか。2010年時点の池田氏にどんな変調があったのか。学会関係者が語る。
「当時、先生は口をもごもごすることがよくありました。“入れ歯がちょっと”ともいうので、『噛み合っていないのかな』と。体調を崩しているとは見えなかった」
池田氏に代わって学会員を惹きつける新しい材料がなかなか提示できない中、学会の機関紙・聖教新聞では、数年おきに、池田氏の近影付きの記事が掲載されていた。
ただ、年を追うごとに紙面での池田氏の顔は次第に小さくなっていく。直近の掲載は2019年に竣工した聖教新聞の新社屋を池田氏と妻・香峯子(かねこ)氏で視察した時のものだ。離れた位置から撮られていて、掲載サイズも小さく、池田氏の顔は実に本文の1文字程度のサイズだ。
年を重ねた姿を伝えたくなかったのか。創価学会広報室に理由を問うても、「お答えしません」とするのみだった。
さらに、学会本部職員OBから「先生は少なくとも2015年ごろまでは週に何回か限られた幹部と会っていた。大事な場面では判断を伝えることもあった」という証言が得られた。8年前まで“健在”だったというのだ。
池田氏の長男の博正・主任副会長は11月18日公開の動画で、香峯子氏の話として「10年以上前に(略)幸いすべてを託してバトンタッチできました」と述べたが、証言が事実なら運営に一定の参画があったことになる。
続く
以下ソース
https://www.news-postseven.com/archives/20231128_1922777.html