0001逢いみての… ★
2023/12/08(金) 00:16:50.35ID:CAP_USER米国とカナダの国境に位置するナイアガラの滝のうち、米国側にあるアメリカ滝では、1931年と1954年に大規模な岩石の崩落が起こり、滝のすぐ下に住宅ほどの大きさの岩が大量に積み上がっていた。そのため、元々垂直に落ちていた滝が2つに分断され、このまま崩落が続けば、いずれ滝が消失して、なだらかに傾斜したただの川の流れになってしまうのではないかと懸念された。
1965年には、地元の新聞がナイアガラの滝を、「治療不能なまでに病んでしまった大切な存在」と形容し、対応を求める声が高まっていた。そこで米連邦議会はついに、陸軍工兵隊に調査を命じた。
しかし、調査に入るためには水の流れを止める必要がある。工兵隊はさっそく、カナダ滝に川の流れを迂回させる囲い堰(ぜき)を建設して、アメリカ滝の流れを一時完全に遮断させた。
工事が行われた1969年の夏、世界的に有名な大瀑布を一目見ようとニューヨーク州を訪れた人々を、滝の代わりに迎えたのは、高さ30メートルの乾いた崖だった。そしてこれは、自然を自由に操る米国の力の証だった。
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1969年6月21日、水が抜かれるアメリカ滝と、その下に積みあがった岩石。
ナイアガラの滝を「修繕」しようという試みは、このときが初めてではなかった。19世紀後半から、米国とカナダの両国は、水の利用と自然景観の維持という相反する2つの目的のバランスをとるために、アメリカ滝とカナダ滝に何度も手を加えてきた。現在、ナイアガラ川を流れる水の4分の3は、国境の両側で滝の下を通る巨大トンネルを流れ、水力発電に利用されている。そんなナイアガラの滝の紆余曲折の歴史を紹介しよう。
五大湖のエリー湖とオンタリオ湖を結ぶナイアガラの滝の周辺には、少なくとも1万年前から先住民族が住みついていた。ナイアガラとは一説に、先住民イロコイ族の言葉で「海峡」を意味する「オングイアーラ」に由来するという。
米大陸にやってきたヨーロッパの探検家も、圧倒的な滝の美しさに心を奪われた。しかし、なかにはこれをビジネスチャンスと見る人々もいた。
1800年代半ばには既に、滝の下の両岸に工場や製粉所が軒を並べていた。1880年代に、ナイアガラ川で初めて大規模水力発電が実証されると、ナイアガラの滝はすぐに世界的な産業の中心地として発展していったと、ナイアガラの滝に詳しい環境歴史家のダニエル・マクファーレーン氏は言う。
この状況に心を痛めたのが、ニューヨーク市のセントラルパークを設計した景観設計家のフレデリック・ロー・オルムステッドだった。オルムステッドは、ナイアガラの滝の絵で有名な画家のフレデリック・チャーチとともに「フリー・ナイアガラ」というナイアガラの滝の保全運動を始めた。そして、滝の下の両岸に立ち並んでいた工場を、川から離れた場所に移転させることに成功する。(参考記事:「巨石のある風景」)
1885年、オルムステッドが設計したニューヨーク州ナイアガラ保護区が米国初の州立公園に指定されると、ナイアガラの滝はすぐに多くの観光客が訪れる人気のスポットになった。ところが、問題が一つあった。米国とカナダの間で、川の上流における水力発電施設の建設競争が激しくなり、滝を流れる水の量が減ってしまったのだ。その結果、滝は以前のような迫力を失っていった。
1950年、カナダと米国はナイアガラ川の分水利用条約を締結し、対策を話し合った。日曜日だけ水を流すという「間欠滝」の案も検討されたが、最終的には、指定された観光シーズンの日中だけ、水力発電に回す分を自然な川の流量の半分以下に抑えることで合意した。
「つまり、クリスマスを含む冬の時期にナイアガラの滝を訪れると、4分の1の水量しか見られないということです」と、マクファーレーン氏はナショナル ジオグラフィックに語った。「残りの4分の3は、滝を迂回するトンネルを通っています」
続く
以下ソース
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/23/120400610/