0001みかんちゃん ★
2025/02/04(火) 12:00:46.52ID:CAP_USERhttps://image.news.livedoor.com/newsimage/stf/5/1/5117c_1238_1fe104bbdb0651343155be82059df4dc.jpg
「吉原高名三幅対」(出所=「国立国会図書館デジタルコレクション」より、加工して作成)
■「奉公人」として働く遊女の実態
幕府も建前としては人身売買を禁じていたため、表向き遊女は年季と給金をきめて妓楼に奉公をする奉公人という形式になっていた。きちんと証文(しょうもん)も取り交わす。
しかし、実際には貧しい親が給金を前借りする形で、娘を妓楼に売り渡していた。いわゆる身売りであり、実質的な人身売買だった。
身売りには、親や親類が直接娘を妓楼に売る場合と、いったん女衒(ぜげん)に売り、女衒が妓楼に売り渡す形があった。
女衒はいわば人買い稼業である。江戸から遠い農村では、親は女衒に頼まざるを得なかった。
■生活に困り、三〜五両で娘を売った
身売りの金額はいくらくらいだったのだろうか。
落語の『文七元結』では、職人の娘が一家の窮状を救うため吉原に身売りをするが、その代金は五十両である。落語『柳田格之進』でも、妻が浪人している夫のために吉原に身売りをするが、その代金は五十両である。
しかし、現在の500万円に相当するこの金額は、時代考証としては信憑性はない。
落語は独特の誇張がある。また、たとえ古典落語でも時代や演者によって改変がなされている。五十両は現代の聴衆にわかりやすい、切りのよい数字であろう。
では、史料ではどうだろうか。
『世事見聞録』(文化十三年)に、
「みな親の艱難(かんなん)によって出るなり。国々の内にも越中・越後・出羽辺り多く出るなり。わずか三両か五両の金子(きんす)に詰まりて売るという」
とあり、越中(富山県)・越後(新潟県)・出羽(山形・秋田県)の貧農が生活に困り、三〜五両で娘を売っているという。現在の30〜50万円である。
この場合、女衒が農村をまわり、幼い女の子を三〜五両で仕入れている。女衒はこれに経費と利益を上乗せした金額で、妓楼に売り渡していた。
■家族のため自発的に身売りした娘も
それにしても、「女の値段」はあまりに安いが、妓楼の理屈は、
「稼げるようになるまで、ただ飯を食わせなければならないのだから」
というものであったろう。
妓楼は女の子が客を取れるようになるまで、禿(かむろ)として育てなければならない。つまり、「即戦力」ではないという論法である。
『宮川舎漫筆』と『きゝのまにまに』に、身売りの事例が載っている。
安政4年(1857)、下級武士の娘が貧窮におちいった親きょうだいを助けるためみずからすすんで吉原に身売りをしたが、その値段は十八両だった。現在の180万円である。
武士の娘は吉原ではいわゆる上玉であろう。それでもわずか十八両だった。
落語の身売り話にくらべると悲惨なくらい低い金額だが、これが現実だった。
■競売にかけられた遊女たちの値段は…
天保12年(1841)閏1月、町奉行所は岡場所の私娼を大々的に取り締まり、召し捕った女を競売にかけて吉原に売り渡した。
そのとき、妓楼がセリで入札した女の名前や給金が『藤岡屋日記』に出ている。なお、「給金」と言っているが、実際はセリ落とした金額である。その、ほんの一部を紹介する。
きん 19歳 角町近江屋へ 金七両三朱
たけ 18歳 角町叶屋へ 金五両
きん 24歳 角町丁子屋へ 金二両二分
つね 17歳 江戸町一丁目丸亀屋へ 金五両二分
岡場所の遊女だったため、妓楼にとっては「即戦力」になる人材だが、金額はこの程度だった。
「女の値段」という場合、ふた通りの意味がある。妓楼が客に遊女を売るときの値段(揚代)と、妓楼が女を仕入れるときの値段である。前者にくらべ、後者は啞然とするくらい安い。
■白米を食べられると「苦界」を耐え忍んだ
遊女の境遇を「苦界」という。妓楼に身売りして遊女になることを「苦界に身を沈める」といった。
ソース元:https://news.livedoor.com/article/detail/28066557/