スケートを辞めよう。
フィギュアスケートを辞め、ただの平凡な一般人である勝生勇利になるのだと心の中でそう決めた。
スケートが嫌になったわけじゃない。
しかし無理矢理にでも後ろ髪を断ち切らなければならない理由が勇利にはあった。
お金が無い。
スケートを続けていくためのお金がこれ以上無いのだということを知らされたのだ。
勝生家の厳しい金銭的事情を勇利が知ってしまったことを両親は知らない。
勇利が一方的に、知ってしまった。
経営が思わしくなく大きな負債を抱えることになるだろう。銀行からの借入も望めないかもしれない。
昨晩ドアの隙間から両親の嘆く声が聞こえてきた。
その翌日、初めての国際大会へ派遣の通知が来たことが勇利にとって何よりの皮肉であった。
成長期に入り、衣装も靴も窮屈になってきたのを今も騙し騙し使っている状態だ。
買い替えるだけでも数十万と飛んでいく金を、気軽に欲しいと言えるわけがなかった。
ましてや海外遠征のための資金など、どこにねだる余地があるというのか。
ここが限界だ。
厳しい中でも何も言わずに勇利にスケートを続けさせてくれている優しい両親だからこそ、これ以上の負担をかけさせるわけにはいかない。
辞退の意思はちゃんと自分で伝えようーー
書面に記載されていた連絡先に勇利は断腸の思いで電話をかけた。
受話器の向こうから聞こえてきた言葉はまさに青天の霹靂とも言えるものだった。
資金のことなら心配はいらない、衣装や靴などの費用もこちらで用意しようーー
勇利は周りの景色がひっくり返ったかのような錯覚に陥った。
信じられない、まるであしながおじさんみたいだ!
連盟の偉い人らしい勇利の良く知らないその人は、スケートに掛かる金銭の一切を援助してくれると言ったのだ。
ありがとうございます、と勇利は受話器越しに何度もお礼を言った。
そして、勇利はその偉い人と二つの約束をした。
一つ目は、この話を誰にも話してはいけないということ。
多額の援助は非公式で行うものだから、両親に話して驚かせたり気を使わせないようにしたいということらしい。
二つ目は、今週末に東京のホテルで会おうというものだった。
教えてもらったそのホテルは田舎者の勇利でも知っているような高級なところで、名前を聞いたときには少し緊張した。
そして翌日、偉い人から勇利に待ち合わせの時間と場所の連絡があった。
最上階のスイートルームを取ったので、そこに直接来て欲しいと部屋番号を伝えられた。
食事でもしながら今後についていろいろな話をしよう、
勇利のことをもっともっと良く知りたいのだと、優しそうな声が受話器から聞こえてきた。
そして今、勇利は重厚な扉の前に立っている。
この扉の向こうにいる偉い人は一体どんな人なんだろう。
勇利は優しいあしながおじさんの顔を想像しながらブザーボタンに手を伸ばした。