ロシア革命を逃れて日本に来て、その後神戸でチョコレート店を経営していた白系ロシア人フョードル・ドミトリエヴィチ・モロゾフ一家は、
神戸の材木商である葛野友槌(現モロゾフの初代社長)から出資を受けて、1931年に神戸モロゾフ製菓を設立した。

経営は順調に推移したが、葛野友槌は会社の会計帳簿をモロゾフ親子側に一切見せなかったため、
モロゾフ家は不審を抱くようになり、最終的に1941年に両者の問題は裁判まで持ち込まれた。

モロゾフ側は日本語が不自由だったため、結果的に裁判で追い出された形となった。
モロゾフ一家はモロゾフ洋菓子店から去るだけではなく、
「モロゾフ」や類似した商号を使用して菓子販売をすることを禁じられ、
同様の事業をすることも禁じられた。
モロゾフ家にとって厳しい条件であったが、
条件を飲まなければロシアを継いだ共産主義国家であるソビエト連邦へ
強制送還すると言われたため、判決をのまざるを得なかった。

ちなみに、モロゾフを離れたモロゾフ家は、フョードルの子のヴァレンティン・フョードロヴィチ・モロゾフが
「バレンタイン製菓店」を立ち上げたが、第二次世界大戦終結直前の1945年に、
連合国軍による空襲で店が壊滅し、戦後に「コスモポリタン製菓」を再度設立している。