男時代劇・第三部
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
>>440
松永弥四郎といって、変装と尾行が得意な同心が居る
原作では、何度も髪を落としている
ちなみに、この松永同心、初登場の時は、
身重の妻を道端で待ち伏せて、白昼堂々犯そうとしたんだ。しかも虚無僧の変装で。
たまたま通りかかった鬼平の嫡男に見つかって、妻は助かったものの、実家に帰ってしまった。
池波先生も破天荒な作風だな。 そういえば初期の鬼平犯科帳では木村とかの同心がカツラを被って浪人に変装したりしてたな
また、時代の抱える社会問題や貧困が犯罪の温床になっていることも忘れずに描いてたな
とりあえず、ヤバいやつらが集まる怪しげな盗人宿に泊まりてえぜ UESMは、いつ、どこで、剣の鍛練をしているのですか? UESMだと、基本的な剣術の修練は和歌山時代に修めたと思う
大柄で恵まれた体格から繰り出す撃ち込みは相当激しかったはず
改革遂行のブレーンであり最も信頼する越前守が重度の痔になるのも仕方ないわな 鬼平の妻の久栄タソは、
なかなか「できる女」らしい。
昼夜を分かたぬ激務に耐えうるのも
良き妻あってこそ 鬼平が盗賊を捕縛しに出動する時の馬上で陣笠に火事場装束がカッチョいい UESMや幕府の要人が乗る馬は
江戸城内で飼われてたのかな? >>449
UESMのは専用の馬場で飼育。
要人のは各家で普通に飼育。 UESM「もうミカンの季節は終わりか。さみしいのう」 紀州出身のUESMは
若い頃から好きなだけミカンを食べてきたのですか?
北国出身の俺からすると
実に羨ましい 三代将軍・徳川家光はホモで有名だが、
当時、掘られるだけが目的の小姓が居たそうな
己の運命を知ったとき、
どんな精神状態になったのか >>455
ご寵愛だから有り難く拝命、と諦めるしかなかったろうな。
どうしても身分が高い者がタチ、低い者がネコ役と決まっていた。
それが逆転した事を示した記録がかの有名な藤原YRNGアニキの台記。
しかも気持ち良かったと記してるなど余程のスキモノだったのが知れる。
家光の場合はハゲ娘にも欲情する程なので、完全なタチ気質だった筈。 >>455
その小姓の一族全員の興廃がかかった交尾になるね
さりげない強弱つけた締め付けとかで気に入られらば大名、さらには老中も望める幸運が待っていたはず 小姓が公坊様のポジ種を頂戴して雄妊娠したら出世コースに乗ったことになる ヴォー、雄妊娠→尻出産ktkr!!
まさに人体の神秘!杉田玄白や前野良沢もビックリ仰天!!
タ〜ヘル・穴トミアッー!!(^○^)
か、解体新書は、花のお江戸のベストセラーですっ>< 小姓あがりの出世人
柳沢吉保
大岡忠光
田沼意次
とことんホモ臭せえ小姓あがりは戦国時代の高坂弾正とかだな 江戸城内で公坊様のぺニスしゃぶるのは可能だったの? 江戸城に限った話ではないが、
お城には隠し部屋がいくつもあったんだぜ 隠し部屋でド淫乱モードのUESMがフェラチオしてくる UESMにしゃぶられて、逝ったら、
最高級の名誉ですか? >>467
まさに武門の誉れ
さらにUESMが気に入ると、口内のザーメンを口移しで飲まされるのが殿中の作法で、これを受けたら小姓組頭や御側用人への昇進・加増が約束され、その夜から宿直が続く
コロナにも感染するかもしれないが 役目としてUESMのぺニスに触れることができた公人朝夕人というのがいたんだぜ?
御役目はUESMが官服(衣冠束帯)着用時の排尿の手助けで、ふだんは何をしていたのかはわかっていないんだぜ?
同朋頭支配十人扶持定員1名土田孫左衛門町せえの世襲 >>469
そんな人が江戸城内の所定の控えの間で出勤日に一日ずっと座って帰るだけの人。
日頃の将軍や御台所の排泄物は奥医師などが診て後、役目の手の者が城内の所定の専用穴に棄てにいっていたので
公人朝夕人はそのお勤めの長だったけど毎度彼が棄てに行ってた訳でない。
将軍外出の時には、日程が決してからその前日まで自宅などでそのお勤めの「習礼」をしていた。
習礼とは練習の事。
そう、公人朝夕人は竿を持って竹筒に指し入れる練習をその当日までずーっと朝から晩までやってたのだ。
失敗が決して赦されないお家の伝来のお勤めだから、本当に真剣に竿を竹筒に指し入れる練習をやっていた。
似たような勤めは宮中や各藩大名にも存在していたが、明治維新と廃藩置県により消滅した。
今の皇居の何処かは不明ながら実は将軍や御台所のウ○コ穴跡なのだ。これ等は将軍や御台所が逝去すると全て埋め戻された。
因みに確か九州辺りの話だったと思うが、ある旧家に明治天皇が行幸した折りに行在所となった時の陛下の出したモノを箱に収め御神体として崇めていた所があったという。 >>470
似たような話で、日光礼幣使かなんかの朝廷の使者の高位の公家が江戸に下る途中、宿場の湯殿でその公家が浸かったお湯を飲むと万病に効くと噂されこぞって飲んだとか ブリブリブリブリッ〜〜!!!!
い、今の屁、屁は、あたいがひったのよ(シクシク・・・こんな人生、もう嫌!!) UESM「余の屁は高貴な屁。嗅げば病が直る。ほれ、嗅げ嗅げ」
ブリブリブリブリッ! UESMは、庶民とは比べ物にならないくらい高級な食事をしてそうだから、
糞にも有効成分が多く含まれて、田圃の肥料にしたら収穫量が上がりそう。
まさに米将軍の面目躍如ktkr!! 徳田新之助、町の湯屋へ行く。
徳田「う〜ん、広々とした湯船はいいな」
そこへやって来た無頼の輩。
無頼「とくさんか?」
さあ、UESMの陰毛はどうなる? UESM「断じて許しがたい。潔くマラを切れ」
悪者「うぬぬ・・・UESMの偽者め!出会え出会え!」
(乱闘)
UESM「成敗!」
お庭番が飛んできて、悪者のマラをスパッ!出血多量で散々苦しみながら絶命する悪者。
御陀仏 後日、死んだはずの悪者と陰間茶屋で再会するUESM
刮目して待て 町火消しに入った新入りには、避けて通れぬしきたりがある。
「組の長老にケツを差し出す」のがそれだが、め組の辰五郎は歳をとりすぎてもはや勃たない・・・
辰五郎「新さん、俺の代わりに掘ってやってくれ」
UESM「ほ、本当にいいのかい?」 毎日のようにお忍びで市中へくり出す理由
それがUESMの狙い >>489
UESM
「フフフ、甘いな。たまには古女房の味が懐かしくなるというものよ。
余にとっての古女房、それはTDSK、おまいだ!」
ズブリ
ズブズブズブズブ
TDSK
「アッー!き、切れる〜・・・」 同時代だと、同じ大岡でも忠相より忠光がヤバそうだね
小姓だしお仕えする西の丸様は口が不自由だし 公坊さまは口が不自由だから、うまくフェラチオができない UESM「大奥とかいうくだらぬものは、もう廃止するぞ!!」 >>495
江戸城の中で女が居ないと困る場所って、大奥だけだったんじゃないか?
身の回りの細々とした世話は小姓がするわけだし、台所だって女である必要はない。むしろ男の方が活躍している。
しかし、筆頭老中すら屈服させるとは、大奥とは、なんつう権力だよ。
吉宗の時はともかく、将軍が最高実力者ではない時期があったから(七代将軍・家継など)、
大袈裟でなく日本の権力の中枢だったんだな。おそロシア 田沼意次は小姓やってた若い頃から大奥で容姿端麗と評判だったらしいな
大奥に気に入られるのも出世の条件 松平定信(UESMの孫)
「大奥に贅沢禁止令を出したら、突っぱねられた・・・いま日本中で倹約してるのに〜〜く、くやしい!!」 UESMって二条城に行ったことが無い?
てゆうか、行ったことがある将軍様の方が少ないか。 >>502
建物こそ違うが二条城に入城したのは家康・秀忠・家光・家茂・慶喜の五将軍。
その他の将軍は生涯上洛しなかったから、将軍の京都での居城で宿舎となる二条城を見る事すらなかった。
家康・秀忠・慶喜に次いで各地を移動したUESMですら幼少・藩主時代含め上洛しなかったので、二条城を観ることは遂に無かった。 二条城といえば大政奉還
全国のホモの頭領の地位を返上した UESM、西日本の出身なのに京都には縁が無かったのか。 UESM「京に行きたいのだが、ちょっとひねって中仙道を歩いてみようかと思うが如何?」 >>507
中仙道コースなら入京可能だったんだけど、将軍が上洛して将軍職など官位叙任を受けに行かず勅使を江戸まで下向させるようになってから
ある意味幕府が事実上朝廷の影響力を減らし日本全土の差配を独自に行う根拠ともなったので、上洛する事自体が将軍が朝廷に屈するかのように映るある種のリスクになってしまったのと(だから家茂の上洛は幕府に取ってとても重大な決断だった)
例え徳川一門内最高位の御三家御三卿でも、幕命も無く許しも無しに上洛するのは謀叛と見倣されかねない危険な行為だった。
まして幕末の混乱で京都内不居住掟が崩れるまで、全国の大名は参勤交代のただの立ち寄りですら上洛するのはほぼ遠慮かさっさと通過、現役藩士を京都内に常駐させてもいけなかった。縁のある公家にも一々毎度使者を立てて交流。
京都所司代など特別職の幕臣などのみしか住めなかった程それは厳重だった。
だから部屋住み時代の気楽な身分だった頃のUESMでも上洛はまず不可な行為だったんだな。 徳田新之助を好きになるオナゴが居てもおかしくないな 対馬藩の宗氏は、九州本土までは船で来るしかないが、
そのまま知らんぷりして大坂辺りまで船で来ました、なんてことは無かったのかな。 >>514
基本、西国大名は大阪あるいは室津、兵庫までは海路で江戸へ向かう
大阪から江戸までは原則海路は認められていなかったので陸路
対馬の宗も朝鮮通信使も中仙道で江戸へ向かった 参勤交代で気になるのは、
○殿様専用の風呂桶まで運んでいった
○料理人を連れていって、行く先々で料理を作っていた
○同じ宿場に参勤交代がかち合うと、格下の一行は本陣に泊まれず、最悪の場合は野宿になったこともある >>516
東海道より中仙道の方が人気だったらしいね
理由は川止めがないので日程に狂いが生じにくいのと宿賃の安さ
彦根の井伊家も中仙道での参勤を何度も願い出たが脚下されている
本陣脇本陣は基本予約制なのだが、幕府や朝廷の急使が臨時に使うと野宿になった
当然ながら、参勤一行の武士たちのホモセックスも野外で展開された >>516
仕方無いんだよね、身辺警固と家格の関係だから。
風呂は浸かり湯より掛かり湯で、例え本陣とはいえ部屋では危ないと湯を作っては入れして家中以外の者を裸の殿様(浴衣姿)に近づけないようにするのと
万一の毒殺に備えて家中の料理人に料理をさせるって意味だから。
家格は領地が中々増やし難くなった江戸時代の武士にとってプライドと忠誠心を煽るエサの一つだったし、これを間違えるのは江戸以前の武士でも本当に死活問題になる重大事項。
家格の仕来りを侵すのはお互いやってはならない事で、上位の家格の大名ですら下位の家格の家中とのトラブル防止に気を遣っていた。 三代将軍・家光は、切れ者として(そして、ホモとして)有名だった。領地替えもバンバンやったが、その中で一つ。
常陸の佐竹公が秋田へ行くことになった。領地替えなんて悔しいから、地元水戸の美人をゾロゾロと連れていった。
更に、途中の仙台でも美女をかき集めて連れていった。
その結果、秋田は美人の国になって、逆に水戸と仙台にはブスしか残らなかったとさ。
あくまで俗説ということで。でも好きな話。 佐竹義宣の甲冑姿の肖像画って戦国大名の肖像画で1位2位を争うくらいかっこいい UESM「トゥモローよりホモろう」
TDSK「は?」 おりん「やい、新の字!たまにはあたいを出合茶屋に誘ってくれよぅ」 >>525
UESM「ああ、お前が男の娘に生まれ変わったら連れていってやろう」 >>521
あのほとんど顔が見えないフルフェイスの頬当て
エロい 直江兼次の兜は後世の贋作だと思う。
甲冑は、ただでさえ重すぎて自由な動きができなかったのに、あんな無意味な装飾なんか付けるのは愚の骨頂。 >>528
兜の前立てって月、毛虫、ムカデなどいろいろあるけど、一つくらい天を衝くようにそそり起ったチンポをあしらった兜があっても良いと思う >>528
いや戦国時代後期から安土桃山辺りの兜あんなんばっかしやぞ。
ワザワザ重量を軽くする為に張子造りにして防御力落とすわデカ過ぎて風の抵抗あるわと、実用としては意味不明なのだが
戦功を陣中にいる戦功を監督する戦目付や周囲の参戦者に証人とさせて明らかにするためだったり、本陣の位置をを配下の兵に明示するのに必要だったとか。
勿論敵にも判るが、敵に自らの武威を見せつける意味もあったという。
鉄砲伝来前後で日本の甲冑は大きく変化するけど、武将を明示する必要性が戦国後期から安土桃山の戦争にはあったって事。
但し、江戸時代制作の派手な甲冑は全く実用性も必要性も欠いた単なる見栄だったのは間違いない。 UESM「ホモで有名な家光公は、どうやって女とセクースなんぞする気になったのかのう?」 >>531
最初の女が男の娘みたいな娘だったから、まんまと引っ掛かった。 お万の方は尼さんだったから家光も「お、小坊主やん」という感じで抵抗なくヤレたのかも
最初は後ろを使ってたが間違えて前に入れちゃった時「こっちも案外良くね?」と思って色々な女を試してみたくなったのでは >>534
両刀疑惑じゃなくて両刀だったんじゃね?
薩摩藩自体がホモ王国だもん UESM「今日は目安箱を開ける日だな」
・・・・・・
或る投書「近頃、尻妊娠する貧民が増えていますが、金が無くて雄出産できません」
UESM「う〜ん、これは大変な問題だ」
かくして、小石川療養所ができました。 >>537
だよな
薩摩男色隼人お馴染みの郷中玉袋プレイのヤりすぎで、西南戦争の時にはすでに睾丸が異常に肥大して歩行も困難だったらしいしな >>538
本人も痔とな格闘に喘いでいた南町奉行TDSKの献策により、長崎からアナルの第一人者が小石川養生所に迎えられたよな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています