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0002Mr.anonymous2017/11/16(木) 22:15:32.93ID:Eve9BcPU
0003Mr.anonymous2017/12/04(月) 22:43:20.46ID:2HjpQVl8
>>2
。。負
負gggg
0009Mr.anonymous2022/05/01(日) 17:14:24.08ID:???
 
【 妓生 】


妓生 (きしょう、キーセン、) とは、元来は李氏朝鮮時代以前の朝鮮半島に於いて、諸外国からの使者や高官の歓待や宮中内の宴会などで楽技を披露したり、性的奉仕[1][2][3]などをするために準備された奴婢の身分の女性(「婢」)のことを意味する。


■日本統治時代の妓生

甲午改革で法的には廃止されたが、後に民間の私娼宿(「キーセンハウス」など)の呼称として残存し、現在に至る。

高麗から李氏朝鮮末期まで約1000年間、常に2万 - 3万名の妓生がおり、李朝時代には官婢として各県ごとに10 - 20名、郡に30 - 40名、府に70 - 80名ほどが常時置かれていた[4]。


■起源

その起源には諸説あり定かでない。
巫女の遊女化説と百済の揚水尺説編集

晋州の妓生の剣舞(申潤福『雙劍對舞』)
妓生は歌や踊りで遊興を盛り上げるのを生業とし、売春する二牌、三牌は妓生とは呼ばれていなかった[5]。
発生には諸説あり、新羅の巫女の遊女化から始まったとか高麗時代の百済の揚水尺に歌舞を習わせたものとも言われている[5]。



■中国の妓女と妓生

朝鮮の妓生制度は、中国の妓女制度が伝わったものといわれる[1]。妓女制度はもとは宮中の医療や歌舞を担当する女卑として妓生 (官妓) を雇用する制度であったが、のちに官吏や辺境の軍人の性的奉仕を兼ねるようになった[1][2]。


■新羅の源花・天官女編集

宗教民俗学者の李能和『朝鮮解語花史[6]』(1927年) によると、新羅の真興王37年に「源花を奉る」とあり、源花は花郎 (ファラン) と対になっており、源花は女性、花郎は美少年がつとめ、これが妓生のはじまりであるとする[6][7]。
また、新羅時代の天官女が妓生制に相当するといわれている。


■百済遺民説

李能和も『高麗史』にもとづき、百済遺民の女性を飾り立て高麗女楽を習わせたことも起源の一つとしている[6][8]。
また、李氏朝鮮後期の学者丁茶山 (1762-1836) の説では妓生は百済遺民柳器匠末裔の楊水尺 (賤民[9]) らが流浪しているのを高麗人李義民が男を奴婢に女は妓籍に登録管理したことに由来するともいう[10]。


■日本の傀儡子との関連

柳田國男は妓生と日本の傀儡子は同祖と考えたが、のちに撤回した[11]。その後、滝川政次郎なども同系説を提唱し、川村湊も性器信仰が妓生と傀儡子に共通することなどから、渡来説は有力とみている[12]。


■高麗の妓生制

高麗時代 (918年-1392年) に、中国の妓女制度が伝わり朝鮮の妓生制度になった[1][13]。

官妓 (女官)・官婢の中で容姿の優れた者を選別し、歌舞を習わせ女楽 (高麗女楽) とした。高麗は政府直属の掌学院[10]を設立し、官妓らはそこに登録され、歌舞や医療などの技芸を担当した。


■辺境軍人の慰安婦として

掌学院に登録された妓生は次第に官僚や辺境の軍人への性的奉仕も兼ねるようになった[1][2]。

李朝時代にも妓生は国境守備将兵の慰安婦としても活用され、国境の六ヶ所の「鎮」や、女真族の出没する白頭山付近の四ヶ所の邑に派遣され、将兵の裁縫や酒食の相手や夜伽をし、士気を鼓舞した[14]。
 
0010妓生について2022/05/01(日) 17:16:50.14ID:???
 
■李氏朝鮮の妓生

李氏朝鮮時代の妓生は女楽のほかに宮中での医療を行い、衣服の縫製もしたので、薬房妓生、尚房妓生という名称も生まれている[5]。
妓生は、官に属する官妓 (妓女・ソウルに仕える宮妓と地方の郷妓に分かれる) と、私有物である妓生が存在したが、大半は官妓だったようである。

妓生になる女性のほとんどは奴婢であるが、実家の没落・一家離散または孤児となったり、身を持ち崩すなどした両班の娘などが妓生になる場合も多かった。
李氏朝鮮の妓生は高麗女楽をルーツにしており、宮中での宴会に用いる為の官妓を置き、それを管理するための役所妓生庁が存在した。

一般的に、妓生は両班を相手とするため、歌舞音曲・学問・詩歌・鍼灸などに通じている必要があった。また、華麗な衣服や豪華な装飾品の着用が許され、他国の高級娼婦と同様に服飾の流行を先導する役目もした。


■妓生制存廃論争

1392年に李氏朝鮮が成立し、1410年には妓生廃止論がおこるが、反対論のなかには妓生制度を廃止すると官吏が一般家庭の女子を犯すことになるとの危惧が出された[1]。山下英愛はこの妓生制度存廃論争をみても、「その性的役割がうかがえる」とのべている[1]。

4代国王世宗のときにも妓生廃止論がおこるが、臣下が妓生を廃止すると奉使 (官吏) が人妻を奪取し犯罪に走ると反論し、世宗はこれを認め「奉使は妓をもって楽となす」として妓生制度を公認した[15]。


■妓生庁

李氏朝鮮政府は妓生庁を設置し、またソウルと平壌に妓生学校を設立し、15歳〜20歳の女子に妓生の育成を行った[10]。


■燕山君と妓生

李能和によれば、李王朝の歴代王君のなかでは9代国王成宗とその長子である10代国王燕山君が妓娼をこよなく愛した[16]。
とりわけ燕山君は暴君、もしくは暗君で知られ、後宮に妓娼をたくさん引き入れ、王妃が邪魔な場合は処刑した[17]。

化粧をしていなかったり、衣服が汚れていた場合は妓生に杖叩きの罰を与え、妊娠した妓生は宮中から追放し、また妓生の夫を調べ上げて皆斬殺した[17]。

燕山君は名寺刹円覚寺を潰し、妓生院を建て、全国から女子を集め大量の妓生を育成した。燕山君の淫蕩の相手となった女性は万にいたったともいわれ、晩年には慶会楼付近に万歳山を作り、山上に月宮をつくり、妓生3000余人が囲われた[17]。
燕山君の時代は妓生の全盛 (絶頂) 期ともいわれる一方でこれらは燕山君の淫蕩な性格に起因するといわれており、妓生の風紀も乱れた。


■運平・青女

燕山君は、妓生を「泰平を運んでくる」という意味で「運平 (うんぴょん)」と改称させ、全国から美女であれば人妻であれ妾であれ強奪し、「運上」させるよう命じた[17]。
全国から未婚の処女を「青女」と呼んで選上させたり、各郡の8歳から12歳の美少女を集め、淫したとも記録され、『李朝実録』では「王色を漁す区別なし」と記している[17]。


■妓生と外交

燕山君の時代などでは王が女淫に耽ったため、臣下も風俗紊乱であった[17]。川村湊はこの時代を「畜妾、畜妓は当たり前のことであり、妓生の、妓生による、妓生のための政治というべきもの」で、朝鮮は「妓生政治・妓生外交」を行っていたと評した[14]。

川村湊は、現在の金氏朝鮮(北朝鮮)が全国から美女を集め「喜び組」と呼んで、気に入った女性を要人の夜伽に供していたことから、金正日は「燕山君などの正統な後継者」と評している[18]。


■貢女

妓生は外交的にも使われることがあり、中国に貢女 (コンニョ) つまり貢ぎ物として「輸出」された[14]。高麗時代には宋の使いやまた明や清の外交官に対しても供与された[14]。

李朝時代でも成宗が辺境の娼妓は国境守備の将兵の裁縫のために置いたものだが都の娼妓は風俗紊乱をもたらしているために妓生制度を廃止したらどうかと提案したところ、
臣下は「中国の使臣のために女楽を用いるため妓生は必要です」と妓生の外交的有用性をもって答えたため、成宗は満足して妓生制度を公認している[15]。

これらは日本人 (倭人) に対しても行われ、1507年の『権発日記』には倭の「野人」にも美しい妓生を供進したと記録されている[14]。

川村湊は、朝鮮の中国外交は常に事大主義を貫き、使臣への女色の供応は友好外交のための「安価な代価 (生け贄) にほかならなかった」とし、また韓国併合以後の総督府政治もこのような「妓生なくして成り立たない国家体制」を引き継いだものであるとした[14]。
 
0011妓生について2022/05/01(日) 17:22:51.10ID:???
 
■李朝の性犯罪と法規

他方、李氏朝鮮時代には性に対して厳格な法規が存在していた。性暴行事件は「大明律」で「犯奸罪」の適用を受けたが、強姦未遂は杖100回と三千里流刑、強姦は絞首刑、近親強姦は斬首刑だった。

中宗23 (1528) 10月、宮人の都伯孫が寡婦を強姦した際、中宗が「常人が強姦することも正しくないのに、まして士族ではないか」と言って厳罰を指示したように、支配層には一層厳格な処身が要求された。
和姦は男女とも杖80回だったので女性は強姦だと主張する場合が多かったが、この場合は女性の当初の意図が判断基準だった。

世祖12年 (1466)、正四品で護軍の申通礼が、官婢である古音徳と何回も性関係を持った。古音徳は、「初めは断って声を出して泣いた(初拒而哭)」という理由で無罪となり、申通礼だけが処罰されたのがその一例である。この事件のように被害女性の身分は重要ではなかった。

妓女の場合も同じだった。暴力がなくても女性の同意がなかったら強姦で処罰したが、被害女性が処罰を望むか否かは量刑の斟酌対象ではなかった。
窃盗の途中に強姦までした場合は斬首刑であり、幼児強姦は例外なしに絞首刑か斬首刑だった。ただし、日本でも江戸時代の「姦通罪」が妾制度や遊郭制度の中で抜け道があったように、様々な抜け道が造られて行った。


■妓生の身分

▼七賤

高麗・李朝時代の身分制度では、支配階級の両班、その下に中庶階級 (中人・吏属)、平民階級があり、その下に賤民階級としての七賤と奴婢があった[19]。
林鍾国によれば、七賤とは商人・船夫・獄卒・逓夫・僧侶・白丁・巫俗のことをいい、これらは身分的に奴隷ではなかったのに対して、奴婢は主人の財産として隷属するものであったから、七賤には及ばない身分であった[19]。


▼奴婢

奴婢はさらに公賤と私賤があり、私賤は伝来婢、買婢、祖伝婢の三種があり、下人を指した[20]。奴婢は売買・略奪の対象であるだけでなく、借金の担保であり、贈り物としても譲与された[20]。

従母法では、奴婢の子は奴婢であり、したがってまた主人の財産であり、自由に売買された[20]。そのため、一度奴婢に落ちたら、代々その身分から離脱できなかった[20]。


■官卑としての妓生

朝鮮時代の妓生の多くは官妓だったが、身分は賤民・官卑であった[10][21]。朝鮮末期には妓生、内人 (宮女)、官奴婢、吏族、駅卒、牢令 (獄卒)、有罪の逃亡者は「七般公賤」と呼ばれていた[9]。


■婢女

婢女 (女性の奴婢) は筒直伊 (トンジキ) ともよばれ、下女のことをいい、林鍾国によれば、朝鮮では婢女は「事実上の家畜」であり、売却 (人身売買)、私刑はもちろん、婢女を殺害しても罪には問われなかったとしている[22]。

さらに林は「韓末、水溝や川にはしばしば流れ落ちないまま、ものに引っ掛かっている年ごろの娘たちの遺棄死体があったといわれる。
局部に石や棒切れを差し込まれているのは、いうまでもなく主人の玩具になった末に奥方に殺された不幸な運命の主人公であった」とも述べている[22]。

両班の多くの家での婢女は奴僕との結婚を許されており、大臣宅の婢女は「婢のなかの婢は大官婢」とも歌われたが結婚は許されなかった[22]。

林鍾国は、婢女が主人の性の玩具になった背景には、朝鮮の奴隷制・身分制度のほか、当時の「両班は地位が高いほど夫人のいる内部屋へ行くことを体面にかかわるものと考えられたので、手近にいる婢女に性の吐け口を求めるしかなかった」ためとし、
若くて美しい官婢が妾になることも普通で、地方官吏のなかには平民の娘に罪を着せて官婢に身分を落とさせて目的をとげることもあったとしている[19]。


■房妓生・守廳妓生

また、性的奉仕を提供するものを房妓生・守廳妓生といったが、この奉仕を享受できるのは監察使や暗行御使などの中央政府派遣の特命官吏の両班階級に限られ、違反すると罰せられた[10]。
 
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