■李朝の性犯罪と法規

他方、李氏朝鮮時代には性に対して厳格な法規が存在していた。性暴行事件は「大明律」で「犯奸罪」の適用を受けたが、強姦未遂は杖100回と三千里流刑、強姦は絞首刑、近親強姦は斬首刑だった。

中宗23 (1528) 10月、宮人の都伯孫が寡婦を強姦した際、中宗が「常人が強姦することも正しくないのに、まして士族ではないか」と言って厳罰を指示したように、支配層には一層厳格な処身が要求された。
和姦は男女とも杖80回だったので女性は強姦だと主張する場合が多かったが、この場合は女性の当初の意図が判断基準だった。

世祖12年 (1466)、正四品で護軍の申通礼が、官婢である古音徳と何回も性関係を持った。古音徳は、「初めは断って声を出して泣いた(初拒而哭)」という理由で無罪となり、申通礼だけが処罰されたのがその一例である。この事件のように被害女性の身分は重要ではなかった。

妓女の場合も同じだった。暴力がなくても女性の同意がなかったら強姦で処罰したが、被害女性が処罰を望むか否かは量刑の斟酌対象ではなかった。
窃盗の途中に強姦までした場合は斬首刑であり、幼児強姦は例外なしに絞首刑か斬首刑だった。ただし、日本でも江戸時代の「姦通罪」が妾制度や遊郭制度の中で抜け道があったように、様々な抜け道が造られて行った。


■妓生の身分

▼七賤

高麗・李朝時代の身分制度では、支配階級の両班、その下に中庶階級 (中人・吏属)、平民階級があり、その下に賤民階級としての七賤と奴婢があった[19]。
林鍾国によれば、七賤とは商人・船夫・獄卒・逓夫・僧侶・白丁・巫俗のことをいい、これらは身分的に奴隷ではなかったのに対して、奴婢は主人の財産として隷属するものであったから、七賤には及ばない身分であった[19]。


▼奴婢

奴婢はさらに公賤と私賤があり、私賤は伝来婢、買婢、祖伝婢の三種があり、下人を指した[20]。奴婢は売買・略奪の対象であるだけでなく、借金の担保であり、贈り物としても譲与された[20]。

従母法では、奴婢の子は奴婢であり、したがってまた主人の財産であり、自由に売買された[20]。そのため、一度奴婢に落ちたら、代々その身分から離脱できなかった[20]。


■官卑としての妓生

朝鮮時代の妓生の多くは官妓だったが、身分は賤民・官卑であった[10][21]。朝鮮末期には妓生、内人 (宮女)、官奴婢、吏族、駅卒、牢令 (獄卒)、有罪の逃亡者は「七般公賤」と呼ばれていた[9]。


■婢女

婢女 (女性の奴婢) は筒直伊 (トンジキ) ともよばれ、下女のことをいい、林鍾国によれば、朝鮮では婢女は「事実上の家畜」であり、売却 (人身売買)、私刑はもちろん、婢女を殺害しても罪には問われなかったとしている[22]。

さらに林は「韓末、水溝や川にはしばしば流れ落ちないまま、ものに引っ掛かっている年ごろの娘たちの遺棄死体があったといわれる。
局部に石や棒切れを差し込まれているのは、いうまでもなく主人の玩具になった末に奥方に殺された不幸な運命の主人公であった」とも述べている[22]。

両班の多くの家での婢女は奴僕との結婚を許されており、大臣宅の婢女は「婢のなかの婢は大官婢」とも歌われたが結婚は許されなかった[22]。

林鍾国は、婢女が主人の性の玩具になった背景には、朝鮮の奴隷制・身分制度のほか、当時の「両班は地位が高いほど夫人のいる内部屋へ行くことを体面にかかわるものと考えられたので、手近にいる婢女に性の吐け口を求めるしかなかった」ためとし、
若くて美しい官婢が妾になることも普通で、地方官吏のなかには平民の娘に罪を着せて官婢に身分を落とさせて目的をとげることもあったとしている[19]。


■房妓生・守廳妓生

また、性的奉仕を提供するものを房妓生・守廳妓生といったが、この奉仕を享受できるのは監察使や暗行御使などの中央政府派遣の特命官吏の両班階級に限られ、違反すると罰せられた[10]。