平壌の第2自然科学院(国防科学)出版社で筆事工として働いていた時のことだった。
平壌新聞で初めてとなる詩を発表した私は、出版社で脚光を浴びる存在となった。
そのころの私は、社会に第一歩を踏み出してから始まった、労働党に入りたいという熱意に囚われていた。
「どうすれば栄光の朝鮮労働党員になれるだろうか?」
長い思索の末にたどり着いた答えは、当時行われていたチュチェ(主体)思想塔の建設現場に、個人的に食糧を届けるというものあった。
1年半もの間、昼食を抜きにして集めた50キロ分の食糧券を党組織に差し出し、チュチェ思想塔の建設現場に私の名義で届けて欲しいと伝えた。
だが党書記は、「それよりも、人民班の配給所で(食糧を)受け取り、領収証を党組職に差し出すのがいいだろう」と助言してくれた。
当時の北朝鮮では党全体で食糧受配事業を猛烈に行っており、党のイルクン(幹部)の事業の成果は、彼の下にいる機関の従業員の、食糧を受け取った量で評価されていた。
初級党書記の本音を悟った私は、まっすぐにご飯工場に行き、食糧券を蒸しパンに変えた。
湯気の立つ蒸しパンの入った大きなかばんを両手に抱え、出版社の隣にあった「チュチェ主体思想塔建設突撃隊江原道旅団指揮部」の政治分科に全て差し出した。
そこで働いていたイルクンたちは、私の行動に感嘆した。
炊事員を呼んで、ご飯と肉がたっぷりはいったスープで私をもてなし、かばんには高級干し魚をいっぱいに詰めてくれた。
父が(日本の植民地支配からの)解放後に初めて味わったというあの高級干し魚だ。
さらには、私の支援のことについて、出版社の党委員会に知らせてくれた。適切に評価してやってほしいということだった。