マリア放蕩記
人口のブラックホール 大都市圏のみが存在する「極点社会」の延長線上には、日本全体の人口減少がさらに加速化していく事態が想定される。 まるで宇宙空間で多くの星がある1点に吸い寄せされていく現象のようであり、「人口のブラックホール現象」と呼ぶことができよう。 日本全体の出生率を引き上げ、「人口減少」に歯止めをかけるたえmには、人口の大都市圏への集中という大きな流れを変えなければならない。( 東京とは 若者たちを低賃金で「使い捨て」にしているのが、東京という都市でしょう。そこにさらに(地方消滅によって)職にあぶれた地方の人たちが大挙して流入してきたら、どうなるか。 そんなところに若者を集めれば、少子化にますます拍車がかかるのは必至。家賃の高さ、地域のサポートの希薄さ、、、、。東京などの大都市圏は、地方に比べ格段に子育てが難しいのですから。 本来、田舎で子育てすべき人たちを吸い寄せて地方を消滅させるだけでなく、集まった人たちに子供を産ませず、結果的に国全体の人口をひたすら減少させていく、、。私はそれを「人口のブラックホール現象」と名付けました。 ○大阪叩きの事実○ 物事は逆回転はじめている 東京キー局が大阪を叩いて、一極集中し始めた30年以上前から日本のGDP成長率は ストップした それまではいいバランスで東京大阪競って成長していってたがなぜか、アメリカでも地方分権が国の成長に 一番いいと調査結果でてる 日本は競争より官僚の企業管理、さらに 日本は首都機能移転を止めて地方分権から逃げてしまった それが低成長、少子化(全国1出生率低い東京への集中による)= 年金制度崩壊、、、そしてついに政権交代 東京は人口的にも飽和状態、もういくら金突っ込んでも成長しない 香港、上海のような国際都市にもなれない 東京が大阪を叩いて一極集中させる政策が日本全体を滅ぼしていく、自業自得 だからこの東京による大阪叩きは国、いや官僚による政策だと国民に認識させるべき 東京に企業や人を移転させるための愚かな政策 >>303 大阪はよしもとも医療現場も公務員も維新も最悪 >>304 東京メディアの情報操作に踊らされることもない 大阪は関西一の大都市で東京に唯一対抗出来る都市 2018年から2021年の3年間で新宿エリアは高層ビルが5棟増加、梅田エリアは11棟の増加となった。 半径1km圏内では2018年時点で新宿よりも梅田の方が大きな超高層ビル群を形成していたため、その差はさらに広がったと言えるだろう。 そして特に面白い結果となったのが梅田と丸の内だ。 高さの合計値は丸の内が若干上回っているものの、棟数は同じで規模はほぼ互角と言えるかもしれない。 2018年の調査前までは”梅田のビル群は新宿より小さい”とさえ思っていた筆者にとっては驚きの結果だ。 いや、全国の多くの人がこの結果は予想外だったのではないだろうか・・・? もちろん調査ミスや漏れの可能性はまだ残っているが、それでも2021年現在で梅田と丸の内では大差がつくほどの違いはないだろう。 100mという数値は建物へのヘリポート設備導入に関する分岐点となるので、 ギリギリ高さを99mに抑えているビルやギリギリ調査範囲の1km圏内に入らなかったビルも多かったため、比較基準を変更して調べてみるとまた違った結果になったかもしれない。 大阪と言われて全国の人がイメージするもの ご存知の通り、上の写真は難波にある道頓堀のド派手な看板群である。 もしくは真っ先にイメージするとしたら、かに道楽の動くカニやくいだおれ太郎、通天閣だろうか。 たしかにこれはこれで大阪が誇る独特の文化であり、いかにも大阪!って感じがして良いと思う。 でも、もう一つの側面を持っている大阪が報じられていないような気がしませんか? >>309 福岡や横浜にも劣る大阪のビル群だから花がない 【ボクシング】尚弥VSドネア戦 衝撃の264秒決着も地上派中継なしにネット落胆「視聴率取れるのになぜ」 ★3 [首都圏の虎★] http://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1654661660/ 「喧嘩がいけない」「争いがいけない」「嫌われたくない」でダメになった現代社会 ―― 先生は若い頃にいろいろ、いわゆる文学青年同士の付き合いがありました。 執行 たくさんありました。 ―― そういう話の中で魂と魂をぶつけ合うような議論というか、討論会みたいなものもあったと思います。それはもう全力で、それぞれがぶつけ合うということでしょうか? 執行 これはもう全力で、喧嘩してでも意見をぶつけ合うしかない。それ以外は文学論ではありません。現代社会は「喧嘩がいけない」とか「争いがいけない」となってしまったので、 文学論などもしづらくなっています。でも私の学生時代まではありました。 ―― 飲み屋とか、特定の地域(よく名前が挙がったりしますが)にしょっちゅう作家さんが集まって喧嘩しているといった話もありました。 執行 ありました。私も大学生まではよく、好きな作家の家に遊びに行って、みんなで文学論をやりました。それで一時期、大喧嘩になったとか、いろいろあります。 ―― それも含めて、体当たりということですね。自分の信条をそのまま吐露して。 執行 これはもう、やって失敗して、覚えるしかない。 ―― その繰り返しこそが、一つの結果を作っていく。 執行 もちろんそうです。 ―― 自分自身を作っていくということですね。 執行 武士道も全部そうです。山本常朝も「自分が失敗していくしかない」といったことを言っています。人の失敗から学ぶことはできません。人とは運命が違うから。 ―― だからこそ体当たりを繰り返して、どんどん失敗して覚えていく。 執行 今は「嫌われたくない」と思う人が特に多いようですが、人に嫌われることは非常に重要なことです。どういう人にどう嫌われたかで、また自分がわかるわけです。だからあえて嫌われるように人生を送ってみなければダメです。私はそう思います。 嫌われたって、何てことありません。「得しよう」と思っていなければ。だいたい、他人から「好かれよう」というのは卑しいじゃないですか。なぜ、現代人はそう思わないのでしょう。 かつては「売れた本」は「程度が低い」とバカにされた ―― 不思議な歌がありまして、小学校1年生になったときに歌う歌で、「友達100人できるかな」というものがあります。ああいう発想はよくないということですね。友達の数ではない。最近は、とくにツイッターとかフェイスブックとか、SNS等でもフォロワー数が……。 執行 あれが、最もくだらない。あれが物質主義の行き着いた虚無思想の代表です。友達や友情、愛といった魂の問題は、人類発生以来、「質」に決まってます。そんなものを数で考えるのは、魂が物質化してきたということです。だから私は、人類は滅びるのではないかというのです。 ―― そこに質がない。数だけを誇るということには。 執行 「いいね」みたいなものは、とくにそうです。友達も友情の深さより、数をいばっている人がいますね。友達が多いとかで。 ―― 「フォロワーが多くていいね」「私のは全然伸びなくて」みたいなことを言う人も、おそらくいるといます。 執行 今はそういう風潮です。ものすごく、くだらない考え方です。そんなことを悩んでいる人間自体が、私から言わせれば知能を疑います。悩むことそのものが ベートーヴェンの第九の歌詞に「本当に惹かれ合う友人を得た者が(ともに喜びの声を上げよう)」といったメッセージがあります。人間たるものはそこを追求していかなければいけない。 執行 愛と一緒です。愛も友情もすべて一緒。信頼も。そうした人類にとって一番重要だったものが、今、物質文明、消費文明、グローバリズムによって、どんどん壊されているわけです。 ―― 「数」になってしまった。 執行 すべてのものが「数」になる。今だと本だって売上げでしょう。 ―― まあ、そうですね。 執行 昔は「何冊売れたか」なんて問題にした書物はありません。とくに19世紀までは。議論の対象は内容に決まっています。20世紀の中頃から売れた数が本の価値みたいになってきた。 ―― ベストセラーのランキングみたいなかたちで。 執行 そうなってきてしまった。最初にベストセラーが出た頃は、「ベストセラー」という言葉がどのくらいくだらないかをみんな言っていたのに、すっかりなくなりました。私が小さい頃、60年ぐらい前まではありましたが、私が10歳になる頃、高度成長ぐらいからなくなりました。 ―― 確かに昔はちょっと分かれていました。「これは大衆が読む売れる本」とか。 執行 売れた本なんか、かえってバカにされる。 ―― そういう傾向がありましたね。 執行 学問をやっている人はみんな、人気がある本やたくさん売れた本は「ああ、そうだろうな。あいつの本は程度が低いから」と言っていました。 日本のプロレスって馬場さんと猪木さんの頃が最高潮だったよな。 因みに初代タイガーマスクはシングルでなら、ダイナマイトキッドに反則負け以外一度も負けた事が無い。 全盛期のゲーリー グッドリッジ 腕相撲100人抜き アームレスラーも瞬殺 https://youtu.be/jsTeQRAppMM クリーブディーンは上にいましたか? クリーブディーンは1987年のシルベスタースタローンのアームレスリング映画「オーバーザトップ」に出演しました。 伝説によると、スタローンのキャラクターは映画の終わりにディーンと腕相撲をすることになっていたとのことです。 その結果、ブルザンクは引退しましたか? 2015年、ブルザンクはWALの196-225lbチャンピオン(右利き)になりました。 ブルザンクは怪我のために2016年に彼のタイトルを守ることができませんでした。 ブルザンク 2021年まで実質的に引退、 デイブパットンクラシックのスーパーマッチでチャンスショーを破ったとき。 クリーブ ディーンvs ゲーリー グッドリッジ https://youtu.be/ZUgj-vNY2pA この年までは僅差でディーンが勝ってましたが 翌年から逆転されます 伝説のアームレスリング世界チャンピオンクリーブディーンが5月の前半に死んでいたようです。 58歳。 この写真を見たとき誰か判りませんでした。 私が知っているのは300キロ近い体重と50センチといわれた前腕の太さです。 何か病気を患っていたのでしょう。 最近はカムバックするためにトレーニングを積んでいたようです。 史上最高のアームレスラーとの呼び声が高い ジョン ブルザンク https://youtu.be/m7eRllvQNV0 平成とか昭和の方が活気があった 今の日本は平和だけど活気がない エネルギーがない コロナ禍関係なく テレビもだいぶ規制が厳しくなって当たり障りのない つまらない番組しか作れなくなった 加えて今はYou Tubeとかの他の娯楽が増えて 若者のテレビ離れが進んでいる こんにちは。レトロ好きで有名なディレクターの卵、五味ちゃんです。 昭和チックなホーロー鍋、ランタンのような形の石油ストーブ、カクカクの昭和レトロなロゴ、どれも「可愛い〜〜!!」と悶絶してしまいます。 しかしこの話を、昭和生まれの美人秘書 伏見さんにしたところ、「昭和がかわいいってどういうこと?」と全く理解できない様子。 そこで今回は、平成が終わるということで 最後に最大限に平成っぽさ(若者っぽさ)をアピールするために、平成生まれから見た昭和のイメージを3つ紹介したいと思います。 人間味がありあったかい 平成生まれから見た昭和のイメージといえば、まさに『ALWAYS 三丁目の夕日』の世界。活気があって、皆さん人情に厚い感じがしますよね。 ご近所との交流も盛んでみんな仲が良くて楽しそうです。この映画を見るたびに、わたしは「昭和に生まれたかった〜」と思ってしまいます。 ロマンチック 昭和といえば、まだ携帯電話もない時代。彼女に電話するのだって、親が出ないかヒヤヒヤしたり、待ち合わせ場所で無事に会えるかわからない。そういう不便さが、ドキドキに変わり、恋をよりロマンチックにしていたと思うのです。 それに比べ現代は、相手がメッセージを読んだか読んでないかさえわかってしまうなんとも味気ない日常。妄想、いや想像の余地もありません。…スマホ捨ててこようかな ものがカワイイ わたしから見ると、昭和に生まれた製品や商品は皆とても可愛く見えます。 フォルムといい、色といい、完璧です。それに、まだテレビが普及していなかった時代、テレビを買うだけで近所中で大ニュースになったり、少し壊れても日曜日にお父さんが修理したり、 きっと今よりも感動することがたくさんあって、買ったものも長く大切にしていたのだろうなと思います。 ちなみに昭和生まれの美人秘書 伏見さんは、特に昭和に魅力は感じないとのこと。でも平成生まれのわたしから見れば、昭和にはロマンが溢れています。 平成は、ものが溢れ、欲しいものはすぐに手に入るインスタントな時代。 だからこそ、より商品の価値を上げて行かなければいけないし、お客さんに欲しい!と思ってもらう、そして買った後も満足し喜んでいただくために常に努力し続けないと生き残っていけない時代だと思います。 とてもネガティブになってしまいそうですが違います。ただつくったものが売れるより、苦労して汗水垂らして売れたものがお客さんに喜んでもらえたら、その喜びは前者の何倍も大きいと思うのです。 次の時代も、平和で明るい時代になるといいなあと思う五味ちゃんでした。 先日、夢を見た。僕は生まれ育ったド田舎のあばら屋で、家族みんなと一緒にテレビを観ていた。 ふと耳をすますと、外からチャルメラの音色が聞こえる。移動式屋台が家のそばまで近づいていることが分かった。 「今日はラーメンでも食うか」と祖父が言うので、玄関から出て屋台を追いかけようとしたところで目が覚めた。 祖父はとっくに他界している。そして、あのチャルメラが流れていた屋台は、地元で見かけることはもうない。(文:松本ミゾレ) 「人と人との繋がりが強かった、あの頃に帰りたい」 チャルメラを最後に耳にしたのは1993年ぐらいだったと記憶しているが、 その屋台はそれよりも20年ほど前から近所を回っていたという話を聞いたことがある。昭和後期から平成初頭あたりの僕の思い出のメロディの一つだ。 なんで昭和について語っているのかといえば、先日2ちゃんねるに「昭和に帰りたい」というスレッドが立ったのを目にしたからだ。 スレッドを立てた人物はこんな風に書いている。 「不便なことばかりだったけど、それでも人情にあふれて人と人との繋がりが強かった、あの頃に帰りたい」 そういえば、僕が子供の頃は近所の人は大抵顔と名前が一致していた。では現代はどうかと考えてみると、隣近所ともほとんど交流はないし、 交流するメリットもないし、そもそも交流しないことで生じる不具合というのも感じることはなくなった。 "向こう三軒両隣"という言葉は、本当に死語になってしまっている。人付き合いが苦手な人にとっては、昔よりも今の方が精神的に楽かもしれないが、このスレッドを立てた人物のように、 かつての昭和に憧憬を抱く人にしてみれば、無機質な時代になったものだと思えるようだ。 きっと10年後には「平成に戻りたい」なんて言っているはず ここで、このスレッドに寄せられていた、昭和を懐かしむ人々の声をいくつか紹介したい。 「平成になって日本は変わってしまった」 「妙なエネルギーに満ちてた時代ではあるな」 「今はどうだ、みんな背中丸めて人の顔は見ないで手に持つ便利な機械しか見ていない」 妙なエネルギーって表現がなんとなくしっくり来る。バブルが弾けるとともにそのエネルギーは霧散し、今では生活の利便性はアップしたけど、 どこか無機質な時代になってしまったというべきか ただ、生活に余計なストレス負荷が少なかったのは、もしかすると昭和だったのかもしれない。 今のようにパソコンやスマホで日々莫大な情報を吸収できるようになったのは利点だけど、 その大量の情報を脳と目で処理するという作業を毎日淡々とこなすのも、なんだかロボットみたいだと感じることもある。 都会を歩けば人々は下に目を落として早歩きするばかり。電車に乗れば老若男女がうつむいて押し黙る光景も珍しくない。 かと言って田舎は田舎でどこもかしこも過疎化が進んで高齢者しか歩いていないシャッター通りがあちらこちら。 とはいえ、時代が変わればライフスタイルもそれなりに大きく変化してしまうのはしょうがない。人は過去に戻ることはできないし、一度手に入れた便利な道具も決して手放さない。 もう誰も昭和には帰れないが、それもまた時代の生んだ変化だ。懐かしい思い出の詰まった過去なんて、そもそも魅力的に思えるものだ y06********さん 2013/1/31 1:51 3回答 昭和って、今より、活気があったような感じがします。 俺は30歳で、昭和自体はあまり覚えてませんが、映像で昭和の歌や、スターやアイドルや、社会の情勢や人物、作品などを見ると、今より面白 そうというか、活気があるというか、 人情味があるというか、そんな気がします。逆に過ごし易いような感じがします。 昭和時代がうらやましくなって、そんな時代を過ごしたかっな、と感じます。 もちろん、今の平成の世の方が、いろんなものが進歩してはいますが。 こんな感じで昭和時代を考える方は、いますか? ベストアンサー uma********さん 2013/1/31 4:45 昔を懐かしむ平成生まれもいるようですし、小学生・中学生・高校生くらいまでの思い出を振り返ろうとする人もいるようです。 未知な未来と、決まっている過去。 やりたいこと・やれるか分からないこと 振り返ればそこにある過去。 悪い思い出もあるんでしょうがね。 便利過ぎも良くないってことだと思います。 欧米を目指したから高度経済成長があって、それで築いてくれた時代がバブル。 はじけたらやる気なくし、それでも何とかしようとするけど、未来は未知。 だから、情報を人より少しでも多く・早く知ろうとするんじゃないですかね? ネットは栄えましたしね。 ただ、分からなかったことが分かってしまうのもあって、未知だった近未来でも多少、分かるようになってます。 分かるとつまらなくなるのもあって、飽きやすくなったのか、過去を振り返れば、分かってはいるけど、自分・限られた人しか知らないからなんでは? gtw********さん 2013/1/31 2:23(編集あり) ネットが無かったからですね 今はドラマ、音楽、買い物、動画 すべてネットで自由に見れる世の中になってますから、、 昔は規制もゆるかったからリアリティーがあるドラマや映画も放送できましたし、 今は規制や番組側が作る演出が多かったりしますし アナログとデジタルの差もあるとおもいますね 『軽トラで来て「○時から紙芝居するよ。美味しいおやつもあるよ〜」って、ミルク煎餅やたこせんや水飴を売るおじさんがいたな。たぶん、紙芝居よりおやつを売るのがメインだったんだろうな』 近くに紙芝居を読んでくれるおじさんが来てくれていたというママもいました。紙芝居に聞き入りながら食べるおやつは、格別の味だったでしょうね。 『駄菓子屋さんで50円あれば、結構お菓子が買えたな。チョコドーナツときな粉棒、小梅ちゃんのあめ玉をバラで売っていたからよく買っていた。あとヨーヨーとかね』 『駄菓子屋で「おっちゃん、これなんぼ(いくら)?」「30万円(30円)!」って言われて50円玉を出したら「はい、おつり20万円!」って。そんなことで毎回みんな爆笑してた』 『アイドルの名前のシールを筆箱に貼ったり、好きなアイドルが載っている雑誌を切り抜いて下敷きの間に挟んだりしたな。なめ猫グッズも懐かしい』 『スケバン刑事のヨーヨーがほしかったなぁ 駄菓子屋さんは子どもたちの憩いの場でしたね。1個5円でも買えるお菓子があったり、アイドルの生写真をくじ引き形式で選んで買えたりしたものです。 駄菓子屋さんのおじさんやおばさんと話す会話ややり取り、お金の計算も駄菓子を買いながら自然と身についたりしましたね。 窓からテレビの音や人々の話し声が聞こえた! 『夕方に習いごとから帰るとき、夏は窓を開け放してある家がほとんどで、 テレビの野球中継の音が聞こえたり、夕ごはんの仕度のにおいがしていたりしたな』 『夏は野球のナイター中継があったけどつまらないし、中継が延長になることもあった。その後の番組の開始時間がズレてビデオの録画予約もズレた。昔のビデオデッキは時間がズレても、 予約した通りの時間に録画が始まっちゃうから、何度泣きを見たことか』 夏は窓を開けて過ごす家もありましたね。窓からテレビの音声が漏れてきたり、野球中継などを見ている人の歓声が聞こえてきたりしたものです。 『聞きたい歌があれば、テレビの歌番組で歌ってるのをラジカセを使って録音した。テレビのチャンネルはカチャカチャ回すダイヤル式だった』 『音楽はCDじゃなくて、レコード。シングルはA面(表)とB面(裏)に分かれていた』 昭和は歌番組の放送も充実していましたね。好きなアーティストやアイドルの出番が近づくと、ラジカセを使って音源をダビングしたというママもいるのでは? テレビの音だけではなく家庭内の音という音はすべてダビングされてしまうので、声も音も立てないようにしていたものです 食材の調達といえばスーパーマーケット、電車やバスなどの公共交通機関の利用は自動改札に交通系ICカードをかざして料金を支払うことができる現代。 対する昭和の時代は買い物をする場所も、駅や映画館などの施設も今とは異なる様相でしたね。 活気があって、賑わっていた商店街 『スーパーはなくて肉屋や豆腐屋、八百屋、魚屋とか個人の商店ばかりだった』 『お正月の3日間は市場もスーパーも商店街も必ず休むから、年末に買いだめしていた』 『スーパーのレジが手打ちだった。商品に貼っているシールの値段を打ち込んでいた。そろばんで計算する店もあった』 個人商店の前では、店主が活気ある声で呼び込みをして賑わっていた商店街。 そろばんで計算をしてくれたり、バーコードがなかったのでレジも手打ちだったりしました。 年末年始にかけて閉店する店があり、年末は買いだめをする人で賑わうこともありましたね。 銭湯も映画館も昭和ならではで、愛着があった 『自動改札がない駅があって、駅員さんが切符を切ってくれた』 『車が通る道路は整備されているけど、路地に入ると土やセメントの舗装だった。雨が降ると水たまりがあちこちにできてたな』 『おばあちゃん家に行ったときは、近所の銭湯に行くのがお決まりだった。瓶のコーヒー牛乳が美味しかった』 『映画は途中からも入れるし、指定席がなくて立ち見もあった。東映アニメまつりで立ち見してたときは、見えないから肩車をしてもらった』 駅では駅員さんが「切符ばさみ」をカチカチとリズミカルに鳴らして、楽しませてくれましたね。ほかにも銭湯や映画館、道路事情などに思い出があるママたちもいました。 現代よりも不便だったけど、楽しかったよ! 『めちゃくちゃアナログな時代だったけど楽しかった! ありがとう昭和!』 『今より不便だったけど、それでも昔に戻りたいくらい平和だったな』 昭和の時代を過ごしてきたママたちからは「昭和に戻りたい」「ありがとう昭和」という声もあがっていました。 筆者も昭和生まれです。思わず「あった、あった」とうなづきながらママたちのコメントを読みふけってしまいました。 昭和生まれのママたちには懐かしい風景も、平成生まれのママたちには少し衝撃的なこともあったでしょうか。 昭和という時代は、不便さを感じても人情味が感じられて過ごしやすかったと思う方もいるかもしれませんね。 みなさんもたまには子ども時代のことを思い出して、癒やされてみませんか。 >>358 どう思われます現代は? 物質的に進化したけど 精神的には退化した そういう風に思いませんか? 概要 全世界の全ての人間に潜在する力。 「気配」「気合」「威圧」などの感覚と同じだが、引き出すのは容易ではない。 大半の人間は気づかないまま、あるいは引き出そうにも引き出せず一生を終えるという。 覇気を体得した者は「覇気使い」と呼ばれる。 波動は間違いなく全ての人間に存在する ただ素粒子よりも小さな波のようなもので 肉眼で見ることは決して出来ない 波動とは? この世に存在する全ての物質(人間・生物・物体等)は素粒子によって構成されています。 また、これらのすべてはなんらかのエネルギーを出しています。 エネルギーは、光や音、電波などと同じように固有の周波数と波長を持っています。これが波動です。 波動は共鳴によって伝達されます。我々人間の想念や意識も波動であり、同様に伝達されます。つまり、全ての物質及び人の想念や意識もこれらに影響しあっている訳です。 意識と肉体と波の関係性 アインシュタインでさえ意味不明で理解出来なかった量子力学の世界 https://youtu.be/ReSVFRwt0EU 斎藤ひとりさんの会社 「まるかん」では… 出陣式やパーティ、余興大会など 楽しいイベント(祭り)が たくさんあるのですが… そのときによく、 「オーーーッ!!!」 と全力で大きな声を出すのですね (お腹に力を込めて 自分に出せる最高のおたけび) 私は、この 「オーーーッ!!!」 が大好きなんです。 人が、全力で叫んでいるところを 見ていると なぜか感動して泣けてくるし… (みんなみんな 顔晴っているんだな…と思うと、 なぜか涙がくる。。。) 自分も 足をぐっと開いて お腹に力を込めて 「オーーーッ!!!」 と叫ぶと… 自分の中に たまっていたものが吹っ飛んで 気持ちが晴れ晴れしてくるんです。 だから、私はこの 「オーーーッ!!!」 が大好きだったのですが… 先日、ひとりさんから 「意外なこと」を 教えていただきました。 あのね大きな声を出すと波動が上がるんだよ 「波動の振動数」が上がるんです。 出陣式とかで 花道を歩く前に 「オーーーッ!!!」 ってやってもらうけど… ああやって、 自分のできるかぎり 全力で大きな声を出すと… 「波動の振動数」がグッと上がるんだよ だから、 「波動が下がっているな…」 と思う人は… 「大きな声」で叫んだり… 大きな声で朗読してみるといい 成功者はみんな声が大きい 世界的にも人気なスポーツであるサッカーには、「サッカー」と「フットボール」という2つの呼び方が存在します。 日本ではサッカーと呼ばれていることが多いですが、サッカーと呼ぶ国は「日本」「アメリカ」「カナダ」「オーストラリア」「ニュージーランド」などの少数派。 イギリスをはじめとするヨーロッパや南米では「フットボール」呼びが一般的であり、世界的に主流な呼び方は「フットボール」なんです! そこで今回は、「サッカー」と「フットボール」の違いについて解説します 「サッカー」の正式名称は「Association Football」(アソシエーション・フットボール)と言います。 アソシエーション・フットボールとは、1863年にフットボールのルールを統一したイギリスの協会が名付けた競技名です。 この「Association Football」のAssociationを略した「soc」と人を表す「er」から出来た呼び方が「soccer」(サッカー)。 前回サッカーの起源について解説したように、日本のサッカーは1873年にイギリス海軍が海外軍人の余暇として伝えたことが始まりとされています 「アソシエーション・フットボール」が確立されてから日本に伝わったため、日本では「フットボール」よりも「サッカー」という呼び方が主流になったと考えられています。 また、この時期には「フットボール」が付く「アメリカンフットボール」「ラグビーフットボール」などが日本に伝わりました。 このことから、サッカーをフットボールとして呼ぶとほかの競技と区別しにくかったため、「サッカー」という呼び方が広まったとも考えられています。 このことから、サッカーをフットボールとして呼ぶとほかの競技と区別しにくかったため、「サッカー」という呼び方が広まったとも考えられています。 同じく「サッカー」と呼んでいるアメリカでは、アメリカンフットボールを「フットボール」と呼んでいるため、「サッカー」呼びが定着していると考えられます。 この他にも、日本は第二次大戦後にアメリカの影響を大きく受けて成長したため、アメリカと同じように「サッカー」と呼ぶようになったという見方もあるようです。 イギリスの正式名称と英語表記 イギリスの正式名称は、 The United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland 日本語では 「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」 となります。 あまりにも長いので、 国際的にはUnited Kingdom (UK) とかGreat Britain(GB) という呼び方がされますが、UKと呼称していることのほうが多いような気がします 何故、正式名称が長いのかというと国の成り立ちに関係します。 【イングランド】 【スコットランド】 【ウェールズ】 【北アイルランド】 の4つの王国の連合国で成り立っているからです。。 一般的にイギリス人を呼ぶ場合は、British(ブリティッシュ)と言います 日本では、江戸時代に「イギリス」という言葉が生まれたと言われており、明治・大正時代いは当て字で「英吉利」が作られ、その後現在も使われている「英国」ができたと言われています。 UKのことをイギリスと呼んでいるのは日本だけなので、世界では通じないので気をつけてくださいね! 「オランダという国名まで使われなくなるのでは?」とネット上で話題になった報道があった。 オランダの英語名は、これまで「Holland(ホランド)」と「the Netherlands(ザ・ネザーランズ)」という2種類が使われていた。 しかし、1月からは「the Netherlands」に公式名が統一された。 オランダ語での正式名称はKoninkrijk der Nederlande。 日本語にそのまま訳すと、ネーデルラント王国。ネーデルラントとは「低地の国」を意味する。 その一方、Holland(ホランド)という呼び名も海外では一般的に使われている。 日本大百科全書には「オランダ独立の中心となり、現在もオランダの心臓部を形成しているHolland(ホラント)地方に由来」しており、「日本語のオランダ(和蘭陀)も、この言葉がなまったものだという」と書かれている。 日本とオランダの交流の歴史は古く、江戸時代初期にはオランダ東インド会社が貿易を担っていた。 国際的なイメージ戦略の一環として、オランダ政府が「Holland(オランダ)は正式名称ではない」と公式発表しました。 2020年1月以降、オランダを指す正式名称は「The Netherlands(ネーデルラント)」のみとなります。 「Holland」という単語は、オランダの一部地域であるホラント州(1840年に北ホラント州・南ホラント州に分割)に由来します。 ホラント州にはアムステルダム、ロッテルダム、ハーグなどの主要都市が含まれ、オランダの政治・経済・文化の中心地として栄えてきた地域で、日本語の「オランダ」もこの「Holland」に由来する単語です。 そんな「Holland」という名称は、ブランディング戦略のために非公式なものとなります。 オランダ外務省の広報担当官は「オランダの文化、規範、そして価値を広めるために、オランダに関する名称の統一が必要でした」と説明し、政府やオランダ観光局、 オランダ産業連盟などの民間組織などが「The Netherlands」が唯一の公式名称だという合意に達したと述べました。 よく日本語で、「テンションが高い・低い」とか、「ハイテンションになっている」という言い方をしますが、これも和製英語(英語だけど日本人の誤用)なので、外国人に言っても通じません。 テンション・tension という英語は「緊張」という意味なので、ハイテンションと言うと「超緊張状態」みたいに外国人にしたら聞こえます。 由来の有力な説に、「テンション・ノート」があります。 よくミュージシャンがテンション上げて行こうぜって言うと思います 「テンション・ノート」と含むコードを、テンション・コードと言うそうです。 で、ミュージシャンがライブ会場などで、盛り上げるためにテンションコードを使うことを、「テンションコードを上げる」「テンションを上げる」と言っていたそうです。 このバンドのメンバーに言っていた「テンションを上げる」が、観客は自分たちに向かって言われた言葉だと誤解をされて、盛り上がって行こうぜという意味と理解されたのが元だそうです。 アームレスリング 鉄腕明石 練習風景 https://youtu.be/zN8mEeKeYzA 東さんが両手使っても勝てない金井さん 異次元 金井義信 世界戦(ロンバス戦) ターニングポイント(転換期) https://youtu.be/BdPZzCU9lxw 力が桁外れに強い外国人選手とやるとき 吊っても駄目 噛んでも駄目 引っ張ても駄目 なら押せと 押して相手のスタミナを削る戦法 京都言葉と大阪言葉との違いの一つに、京都言葉は順行同化(語頭方向の音に合わせて語末方向の音が変化する)する傾向が強いのに対して、 大阪言葉は逆行同化(語末方向の音に合わせて語頭方向の音が変化する)する傾向が強いという点が挙げられます。 この現象は否定の助動詞ヘンや断定の助動詞ヤが続く時に顕著です。京都では「アラヘン・キイヒン」のように助動詞ヘンが付いても動詞の語幹は維持されるのに対して、 大阪では「アレヘン・ケエヘン」のようにしばしば動詞の語幹末がエの段の音に変化してしまいます。 助動詞ヤが付く時も大阪言葉では、「そや→せや」「のや→ねや」「たんや→てん(や)」のように、助動詞ヤが直前の音をエの段の音に変化させてしまう傾向が見られます。 京都人は「京都」というくくりを重視するようなところがあり、京阪の言葉の違いについても敏感であったりすることが多いのですが、 大阪の方は「大阪の言葉も神戸の言葉も京都の言葉もみんな同じ関西弁!」という「汎関西弁主義」的なとらえ方をしている方が多いという印象があります。あるいは「 大阪≒関西」という認識をお持ちの方が多いということなのかもしれません 「京都弁」は、「京ことば」と呼ばれることもあります。実は、「京ことば」は、1200年ほどの長い歴史を生き続けたことばなんです。 明治時代に入るまでは、標準語として使われていたというほど、人々の生活に根付いていました。 なぜなら、京都は都として栄えた土地だからです。したがって、地方色が伺える「京都弁」という言葉を避けて、「京ことば」を好んで使われる傾向にあります。 もともと2種類に分かれていた言葉遣いが、人々の生活の変化にともなって融合していくなかで、現在の「京都弁」になったと考えられます。 ひとつは、公家が使っていた「御所ことば」。もうひとつは、町民が使っていた「町方ことば」です。 「大阪弁」の特徴 「大阪弁」は、サ行の発音がはっきりしていないという特徴があります。 したがって、「すいません」を「すんまへん」と言ってしまうことが多いです。 また、語尾が「ねん」「やん」と「ん」で終わることが多いため、すぱすぱと歯切れの良い印象を与えます。 「京都弁」と「大阪弁」の違い 「京都弁」と「大阪弁」の大きな違いは、イントネーションにあるといえるのではないでしょうか。 抑揚があり、柔らかな印象を与えるのが「京都弁」です。一方、「大阪弁」にはあまり抑揚がありません。平坦寄りのイントネーションであるため、「京都弁」よりも強めに感じられることがあるかもしれません。 もう一つの違いは、語尾をみると分かりやすいです。例として、「行く」の「京都弁」と「関西弁」を取りあげて見ていきましょう。 「京都弁」で「行く」は、「行かはる」「行けへん」などと変化します。 一方、「大阪弁」では、「行きはる」「行かれへん」を使うという違いが。 「しなさい」という命令形も見てみましょう。「京都弁」だと「しなはい」、「大阪弁」だと「しなはれ」です。 こうしてみてみると、「京都弁」の方が、気持ち母音が強めだといえるのではないでしょうか。 続いては、「京都弁」の特徴を紹介します。どんなところに雅さや、はんなりさを伺えるか考えながら迫ってみましょう。 1:語尾が「しはる」 「京都弁」の特徴として、敬語を使う際の語尾が挙げられます。 敬語で相手の行動を示す際は、動詞に「される」をつけますよね。 「京都弁」の敬語は、語尾を「される」ではなく、「しはる」に変化させます。 「京都弁」の敬語表現ではありますが、ビジネスシーンやかしこまった場面においては、標準語が使われることが多いようです。 2:イントネーションが独特 「京都弁」は、イントネーションとアクセントのバリエーションが多く、特徴的といえるのではないでしょうか。 特徴や話し方から、すぐに「京都弁」だと判断できる場合もあるでしょう。 先ほども述べた通り、京都は都として栄えた土地です。 文化や言葉は、京都で花開いたともいえ、したがって、元々の日本語のイントネーションを色濃く残しているのです。 京都から離れるほど、イントネーションやアクセントが平坦になっていき、標準語に寄っていくという特徴があります。 江戸っ子とは? https://bjtp.tokyo/edokko/#: ~:text=%E3%81%9D%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%80%81%5B%E3%82%A2%E3%82%A4%5D%E3%83%BB%5B,%E3%80%8C%E3%81%B5%E3%81%A6%E3%81%87%E3%80%8D%E3%81%AA%E3%81%A9%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82 「江戸っ子」とは 初めて「江戸っ子」という言葉が登場したのは、明和8年(1771年)の万句合(まんくあわせ)の雑句の一句、 「江戸ッ子のわらんじはくらんがしさ」であると言われています。同時期に出た洒落本では「東都子」と書いて「えどっこ」と読ませているものもありました。 このことから「江戸っ子」という言葉は、当時の都・京都に対する江戸の人々の「俺たちの町だって京都と十分に渡り合える!江戸は東の都なんだ」という対抗心から生まれたものではないか、と言われています。 当時は次の特徴を持つ人のことを「江戸っ子」と呼んでいました。 江戸っ子の性格を表す言葉、「江戸っ子気質」。江戸っ子の全員がそうであったとは限りませんが、一般的には「江戸っ子」は次の様な性質を持っているとされています。 「金離れが良い・細かいことにはこだわらない・意地っ張り・喧嘩っ早い・駄洒落ばかり言う・議論が苦手・人情家で涙もろい・正義漢」 …9割方がろくでもない男の特徴ですね。しかし、これらは「己の道を極めるために、自分を磨く生きの良い人間」の半面を表しています。「スキルを身につけるために金を惜しまない」=「金離れが良い」、「自分のこだわりを貫く」=「意地っ張り」なのです。 当時の「江戸っ子気質」とは、現代で言う「職人気質」に近いのかもしれません。 べらんめえ口調」はここから来た!発音の連母音変化 気の短い江戸っ子は、母音が続く言葉の発音を出来るだけ手短に済ませようとします。 そのため、[アイ]・[アエ]・[オイ]が[エー]に変化してしまいます。 例えば、「無い」→「ねぇ」、「お前」→「おめぇ」、「太い」→「ふてぇ」などです。その他にも、[ウイ]が[イー]に変化します。 「寒い」→「さみぃ」、「悪い」→「わりぃ」の様に変わります。 様を見ろ 奴の死に様を見ろ 様(ざま)を見ろ ざまあみろ ざまあみやがれ(生まれた年代 江戸時代) 【テレビ】NHK党・立花孝志氏「報ステ」党首討論で“強制終了” 大越キャスター「その発言は認められません」★3 [鉄チーズ烏★] http://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1655417429/ 私たちは現実の存在ですか? もしそうだとするなら、何がそれを証明しますか? 私たちが、何者かのコンピュータ内の「シミュレートされた存在」である可能性はないでしょうか? このような仮説は「シミュレーション仮説」と呼ばれています。 Vsauce3 YouTubeチャンネルのホストであるジェイク・ローパー氏は、彼のチャンネルで「シミュレーション仮説」について解説。ある条件を満たせば「意識も文明もシミュレーションは可能だ」と述べています。 以下で説明する「5つの仮定」が立証できる場合、わたしたちは「シミュレーション」なのかもしれません。 私たちの「脳」や視覚などの「感覚」には限界があるので、宇宙の本質をそのまま経験することはできません。 ですから、それらを学ぶために、「道具」や「概念」を活用しています。 宇宙を見るためにシミュレートしている 宇宙を見るためにシミュレートしている / Credit;Credit;Vsauce3 例えば、私たちは実際に非常に遠く離れた宇宙を「目」で確認することができません。最新の望遠鏡を使っても、銀河系の詳細な仕組みを直接確認できないのです。 そんな時に役立ってきたのが「シミュレーション」です。 私たちが観測できる範囲の宇宙や、自然法則の情報を組み合わせて、コンピュータ内で仮想空間を作りあげるのです。 それらをコンピュータ内で作動させることで、動きや仕組みを予測することができます。 ローパー氏は、オクスフォード大学教授であるニック・ボストロム氏の「シミュレーション論争」の改変されたバージョンに基づいて、5つの仮定を用意しました。 もし、それらの仮定が「真」であるなら、私たちはシミュレーションの中で生きていることになります。 難しすぎてわかりません 免停の時に短縮講義でシミュレーター使わされて酔ったし 漫画に酔わされるとは思わんやった あれはひどいぞ 京都の人だったね 京都というのも変わった場所よな 宮津も福知山も京都でしょ 全然文化圏が違うような気がします >>421 やっぱり都会と田舎の差はあるね 京都市の人口が147万人くらいで京都府の人口が 260万人くらいだから人口の半分以上が京都市に集中してる 宮津とか福知山とか京都と言われてもピンとこないし 独自の文化圏を築いてるね でもやっぱり田舎の人の方が心が豊かというか優しい人が多いと思います そんなに偏在してますか 京都の人間は人が悪いというのが有名だからな 市内だけなんだと思うけど 私の知っている京都人はそんなに悪い奴おらんかったけどね イメージだけなんかな >>424 イメージって怖いよね マスコミが植え付けたイメージに知らず知らずのうちに縛られてるんだよみんな こんな話があった 一次元の世界、つまり、一本の線だけからなる世界に住んでいる人は、前と後ろには進むことができても、横に進むとか上や下に進むということができない。 いや、できないというよりも考えられない。だからその一本の線の道の行く手に岩があれば、そこから先へは進めなくなってしまう。 それを見ている僕たち三次元の世界の住人からすれば、ああ、なんて馬鹿なんだろう、ちょっと横に回ればいいのにと思うが、 一次元の彼にはそんなことは想像することさえできないというのだ。 二次元となると、岩があっても楽によけて通ることができる。 だが、たとえそれが石ころほどの大きさでも、やはりよけて通るしかない。 ひょいと一跨ぎするということができない。考えも及ばない。 とすれば、同じように、僕たちもまた、四次元以上の存在の人たちから嘲笑われてはいないだろうか。 彼らのひょいと一跨ぎが、僕らには永遠の壁なのだ。 そういえば世にも奇妙な物語で気に入らない人達を 二次元のゲームの中に取り込んで消していくというのがあった >>420 難しいと思うから難しいんですよ 貴方が思ってるよりも世界は単純 結局この世界がシミュレーションかどうかなんて 物質文明(科学文明)が進歩したから考え出したことなんだけどね >>432 人間は四次元以上の世界を想像出来ても感知できないらしいです 超ひも理論とかだと10次元以上あるらしいです 5次元の世界だと波動の世界になるんじゃないですかね 超ひも理論によるとこの世界は 素粒子よりも小さな極小の「ひも」が様々な振動をすることで種々の「素粒子」の姿を現して それらが「物」や「光」や「エネルギー」などを作りこの世界を造り出しているというもの ギターが弦の振動だけで無数の音を奏でるように 一本の『ひも』の振動だけで宇宙の全てを造り出してしまうという発想がなんとも面白いですね かつての日本人は物質(お金 もの 外見)に囚われない高潔な精神性を持っていた 精神を一番大切にしていた 現代日本人は物質(物質世界)に囚われた人ばかり 物質主義が行き着くところは結局虚無主義 ロボットやAIが進化すれば人間すら必要なくなる 物質が虚像だということがわかれば 精神が本体でこの世界が一つの精神世界だということがわかる 回る回るよ時代は回る 喜び悲しみ繰り返し https://youtu.be/7BFGJ5W9k0U あんな時代もあったねと こんな時代もあったねと 何故疑問に思わないのか?ここが怖いところです。 インターネットって怖いものっていう意識がまるでないのです。学校で習いませんでしたかね? うん。習ってないんですよね。何故ならこの素直で善良な人たちは、私たちの親世代だから…。 まぁ40〜50代の人たちだと思われます。学校では習わなかった世代なんですよね。 私たちの世代…まぁ多分、インターネット黎明期にパソコンを触れることが出来る年齢であった30代から、ゆとり世代以降の人々は、学校でネットの怖さなどについて授業がありました。 掲示板に書きこみをすることひとつとっても、もしかしたら何かの情報をぶっこぬかれてるか、それとも何か送り込まれているかもしれない、と知っているんですが、 中高年の方々は本当に知る機会もなければ、知ること自体がもう「どうせわからないから」という境地になっちゃってて。 まぁ、例えば自分のおばあちゃんにLineの使い方をイチから教えると考えるとちょっとウンザリしますよね?「どうせ分からないよ」と。 若い人も、中高年に教えるのが面倒。中高年も教わるのが面倒。 そして中高年は、何故か性善説支持者(ただしインターネット内に限る)。 このような不幸な要素が重なり合い、現在、中高年の方々はネットリテラシーについて学ぶ…というとおかしいのかなぁ、なんていうか、直球で言うとネットの怖さやら、 全世界に情報が発信されているよということやら、一切分かってないままインターネットを使っているのです。 フェイスブックやツイッターで実名を出して色んな所にアクセス。変なサイトの会員にも安易になる。なんかちゃんとしたサイトに見えたから、とかそんな理由で、氏名、住所、電話番号、メールアドレスとかをフォームに入力して送信しちゃう。 その結果、おかしなメールがきまくるわ、変なはがきが来るわ、みたいなことが起こるんですけどね。 日本における最近の嫌煙運動は明らかに行き過ぎであると思われます。 前回の「ヘルシーキャンパス21」に掲載された、嫌煙団体が発表している合成写真や誇張された数字の羅列は、少なくとも真理追究の場としての大学には全くふさわしくないと思います。 浅野牧重氏による人工的に捏造された「きれいな肺とタバコによって汚れた肺」が小学生用の副読本やいろいろなパンフレットに転載されていますが、これが作為的に捏造されたものであることはあまり知られていません(生体の肺はけっしてあんな風に黒くはなりません)。 せめて我々大学の研究者くらいは、世の中のメディアで流通するでたらめな情報に惑わされず、一次データや正確な科学的検証に基づく議論をしていかなくてはならないのではないでしょうか。 悪いもの」「汚いもの」「役に立たないもの」「不快なもの」はすべて排除してもいいという考え方には文明の病理が色濃く感じられます。 「健康増進法」という、名前を口にするだけでも恥ずかしくなる悪法を作り出した日本は、歴史に汚点を残したと言えます。 こうした法制化のルーツが、ナチスドイツにあり、その結果ユダヤ人や精神障害者虐殺を招いたということを思い返す必要があると思います。 ここでは、「タバコが肺ガンなどの原因になる」「受動喫煙は非喫煙者の健康を損ねる」という二点に絞って、嫌煙キャンペーンの「嘘」を暴いていきたいと思います。 タバコは肺ガンの原因なのだろうか? 肺ガン死亡者の増加が喫煙人口の増加と比例しており、喫煙とガン死亡者の増加が相関していると言われています。 けれども、過去35年間で肺ガンの死亡者数が約10倍になったという数字やグラフは老人人口の増加と、CTなどの医療器具の発達によるガンの発見確率の増加を全く考慮にいれていません。 厚生省自身が発表している「人口動態統計」における「年齢調整訂正死亡率」を見ても、肺ガンの増加はほんの僅かであり、ガン死亡率は少しも増えていないことがわかります そもそも、喫煙者人口が劇的に減少している英米などの外国でも、肺ガンの発生率は全く変化せずむしろ増加しています。先進工業国で最も喫煙率の高い日本が肺ガンの発生率が最も低く、平均寿命世界一ということを考えてみても、 喫煙とガン死亡率の因果関係はきわめて疑わしいのです。自動車の排気ガスや飲酒がガンを引き起こすという疫学的データはあっても、タバコの煙だけでガンが発生するという実験結果は、実は世界で一例たりとも存在しません。 恣意的に喫煙者人口の増大と単純な肺ガン死亡者総数のグラフが重ね合わせられているだけで、「タバコ=肺ガン」説は科学的には全く根拠がないのです そして、タバコが子宮体ガン、乳ガンの発生率を逆に低めるというデータや、アルツハイマー病にかかる確率が非喫煙者の1/3であるという事実、ラットなどの実験で迷路学習能が上昇するなどといった、 嫌煙派に都合の悪いデータはなぜか隠されています。 どうしてなのでしょうか? それはこれらが嫌煙派の人々によって恣意的に解釈されたデータであり、科学的な検証よりも感情的な議論ばかりがなされてきたからです。たとえば、肺ガンによる死亡率は人口百万人あたり数千人です。 ということは、百人あたりに換算すると僅か十分の何人という計算になります。その中で非喫煙者と喫煙者の肺ガン発生率の違いの統計的な比率、たとえば、1:1.3というような比率のもつ有意性が統計学的には「喫煙者が肺ガンにかかる確率は非喫煙者の5倍から10倍」というように翻訳されているのです。つまり、百人中0.1人と0.13人の差を「多い」と思うか、 「たいしたことない」と思うかという「解釈の違い」の中にしか、「タバコの害」の根拠は存在していないのです。 また、喫煙者がタバコを吸うのをやめても、この数字は全く減少しないことも知られています。つまり、禁煙しても、「肺ガンにかかりやすい」という確率は全く下がらないし、何の意味もないことになります。 肺ガンとタバコの因果関係が疑わしいということに気づいた嫌煙派側は最近になって急に、気管支炎、心臓病、COPD(慢性閉塞性肺疾患)の危険性を強調する方向にシフトしてきています。しかし、これらの病気とタバコの因果関係も全く証明などされておりません。 特に最近まで100%喫煙が原因とされてきたCOPDが非喫煙者で多く発生していることからも、このタバコ=病因説は一層怪しくなってきています。 タバコの煙は喉や気管を刺激し炎症を起こしますから、慢性閉塞性呼吸障害や虚血性心疾患の人はタバコをやめた方がいいのはもちろんです。しかし、それ以外にタバコが健康に深刻な影響を及ぼすということは、科学的・医学的には全く「証明」などされていないというのが真実なのです (肺ガンは5倍、咽頭ガンは50倍、喫煙者の妻のガン死亡率は2倍といった衝撃的なデータを発表した元国立がんセンターの平山雄博士の論文のいい加減さとデータのいかがわしさについては多数の指摘があります)。 タバコは発ガン物質の塊か? それでもタバコの害を信じる人たちは、不確かな疫学的データに重ね合わせて、有害な「発ガン物質」の存在を引き合いに出してくることが多くなっています。 確かに、タバコの成分中約1千万分の5グラム前後のいわゆる「発ガン物質」が含まれていることは知られています。 しかし、焼肉や焼き魚の焦げが「発ガン物質」とされているように 、ラットなどへの強制摂取実験によって発ガン性があるといわれている「発ガン物質」は他にも数多く知られており、お茶、コーヒー、みそ、醤油、ソース、ワインなど多くの食物にはタバコよりももっと多様で大量の「発ガン物質」が含まれているのです。 その上、タバコの中にはその逆に発ガンを抑える「発ガン抑制物質」も数多く含まれていますが、そのことに触れられることはあまりありません。 我々が飲んでいる水道水には1グラムあたり約百万分の5グラムの発ガン物質「トリハロメタン」が含まれていますが、これは安全基準を満たしていているとされています。 一日に1リットルの水道水を摂取すれば、それはタバコの一万倍以上の「発ガン物質」を摂取していることになるのです。 つまり、タバコの発ガン性とは他の食品や日常摂取する水道水と比べても遥かに低く、全く問題にするほどのものではないのです。 タバコをまるで「発ガン物質」の塊のように言う人は、水道水やみそ汁、お茶などをはじめ日常的な食事のすべてを否定しなくては論理的におかしいことになります。 また、ラットなどへの強制喫煙でガンが発生するだけのタバコの量は、人間の場合一日数万本に当たります。そんな量のタバコを吸う喫煙者や受動喫煙者は実際には存在し得ないのです。 誠実な研究者なら、発ガン物質が存在するかどうかよりも、その摂取量をなぜ問題にしないのかを問わなくてはなりません。 そして、その量は喫煙者の場合にも受動喫煙をさせられる非喫煙者の場合にも、生活の上で問題にならないほどの微量なのです。 なせ非科学的な嫌煙キャンペーンが執拗になされるのか? 養老孟司さんは、現代の「嫌煙キャンペーン」を、かつてニクソン大統領がベトナム戦争の枯れ葉剤に対する環境団体の非難を交わすために、政府の資金を使って故意に「反捕鯨キャンペーン」を作り上げたのに似た、巨大な政治的陰謀ではないかと指摘しています(『ブルータス』2005年3月15日号)。 反捕鯨運動において、国連やIWC(国際捕鯨委員会)が果たした役割と、米国が主導権を握るWHO(世界保険機構)が反喫煙運動において果たした役割とは確かによく似ています。 上に見てきたように、タバコには巷間声高に主張されているような「害」などは存在しません。あるいはより正確には「存在しているという証拠はどこにもない」のです。 なのに、タバコだけがなぜこれほどまでに攻撃を受けるのでしょうか。端的に言ってそれは「煙たい」からだと思われます。タバコの煙は目に見え、匂いもします。この目に見え、鼻で感じられる「異物」を消滅させたい。自分の目に見えるところから不快なものを排除したいという欲望がそこには感じられます。 また、それが「科学的に証明されている」という間違った認識から「自分が正しいことを言っている側にいる」という自己満足と快感を生み出しています こうした人たちは自分がいない場所からさえもタバコを駆逐しなくてはならないという使命感を持つようになり暴走を始めます。 たまたま自分が雑踏の中で煙たい思いをしたからと言って、路上禁煙とか屋外禁煙を条例化しようとしたりルール化しようとしたりするのは行き過ぎです。とにかく「悪い」ものだから「追放する」というのは、男女合わせて約30%、 男性だけだと約50%近くいる喫煙者に対する行き過ぎの迫害だと言わざるをえません。 タバコは「百害あって一利なし」などとよく言われますが、もちろんそんなことはありません。コーヒー、お茶、酒などのあらゆる嗜好品と同じく、タバコは喫煙者にかけがえのない愉しみと喜びを与えてくれます。 だからこそ世界中に広まり、日本においても400年の長きに渡って愛され続けてきたのです。また、頭をすっきりとさせる効能をはじめ、さまざまな「益」を与えてくれています。最近では構内全面禁煙にする病院なども出てきていますが、人生の最後を迎えようとしている患者の末期の楽しみまで奪ってしまうようなこうした措置は明らかに間違っています。 死刑囚ですら、刑執行の前にはタバコを吸うことを許されているのです。 私がここで主張したかったのは、「タバコの害」という神話が捏造されているという「事実」です。 それが、非喫煙者にまで健康上の「害」を与えていることが「科学的に証明されている」というのは明らかに「嘘」であると明確に指摘しておかなくてはなりません。 様々な実験データや疫学的調査の中で、それを明確に「証明」しているものはこれまでひとつもないのです。もし、あると言う人が居るなら是非私に教えて下さい。 医学的にまだ研究途上にあるものを「既に証明されている」として、法制化までしてしまおうというこの国の現状に対して、私は大きな危機感を抱いています。「メディア・リテラシー」の重要性もますます指摘される今日、せめて大学人だけは、 タバコに対する現代日本のヒステリックで非科学的な主張に対して、冷静な認識を共有していただきたいと願っています。 科学・哲学は、疑うことからスタートします。 このことは極めて重要なことです。 学問のスタート地点は疑ってみることです。 ものすごく簡単に言うと、 空はどうして青いのだろう? 夕焼けはどうして赤いのだろう? 平等って何だろう? 正義とは何だろう? 地球は平って言われているけど、本当に地球は平なんだろうか? 宇宙の中心は、本当に地球何だろうか? というような疑い・疑問・疑念です。 常識であったり、抽象語であったり、ドグマであったりするものを疑うということが、学問のスタート地点です。 空が青い・夕焼けが赤いのは常識だからといって、何も考えなければ科学は生まれません。 常識に疑問を持つことがまずは重要です。 地球が平だとか、宇宙の中心は地球のというのは、数百年前まではドグマ、つまりは、絶対的な(強制された)真理でした。疑うことを許されない真理でした。 でも、このドグマを疑ったのが、コロンブスであったり、コペルニクスであったり、ガリレオであったり、その他、多くの科学者たちでした。 常に、常識を疑う、抽象的に論じられていることを疑う、ドグマを疑うということが、思考の出発点であり、学問のスタート地点です。 デカルトは世界の全てを疑った 疑ったからこそ近代哲学の父と呼ばれている 要は「自分の頭で考える」ということは、すべてのことを鵜呑みにせず、言われたことや見聞きしたことに対してすべて疑ってかかり、必ず自ら検証し、他人とは違う自分なりの見解を導き出すことです。 先述の「前文(無知の知)」を根本的な考えとしたのは、哲学の父のソクラテスでした。 この「第1条」で有名なのは、哲学に加えて数学という「考える」ための二大学問においていずれも大きな業績を挙げて、それらの基礎を築いたフランスのルネ・デカルトです。 幾何学の基礎を築き、数学者としても大変有名なデカルトですが、彼の残した哲学上の業績がこのような「方法的懐疑」の浸透です。 彼は、ありとあらゆるものを疑ってかかりましたが、最後に残った「疑いようのないこと」が、疑っている自分自身の存在でした。そこから出てきた言葉が、よく知られている、 「我思う、故に我あり」 という言葉です。 これもまた極端な疑い方ですが、要は、考えることの基礎には疑うことがあるということの端的な表れといっていいでしょう。 「宗教は信じることから始まり,科学は疑うことから始まる」のです。ニュートンの万有引力を疑うことから相対性理論が生まれたように,科学は常に定説の否定から新たな地平を切り開いてきました。 それが科学の進歩です。逆に,宗教は教祖の言葉や聖典の言葉は絶対否定しないし,疑おうともしません。 それらを疑ったら宗教そのものが成立しなくなるからです。 疑ったら負け,疑われたら負けです。教えへの絶対服従こそが宗教を成立させます。 地震だけでなく異臭と異音と地鳴りで、逃げるに逃げられないから幻視すら見えるんだな。 諦めて心を穏やかに保てば、死を受け入れられます。 安倍元総理も意識を失う前に微笑んだそうだから、運命を受け入れて笑顔で逝ってください。 【芸能】橋本環奈 風呂上がり「すっぴん」でファンと交流 誹謗中傷に対する考えも披露「次元が違うと思わないと」 [フォーエバー★] http://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1659171841/ 橋本は「すっぴんですよ、お風呂上りなので」とTシャツ&ショートパンツ姿で登場。 最近自宅に設置したというビールサーバーで入れたビールを一口飲むと「はぁ〜うまっ!」と可愛らしく声を上げた。 その後はビールを飲みつつモグモグと食事も取り、寄せられた質問に答える形で配信を進行。以前も「お酒が好きでよく飲みます。ビールが好き」と話していたが、この日も「ビールサーバー、おいしすぎてビックリ。めちゃくちゃおいしいです。 ビール終わったら焼酎飲んだりしますよ、家だと」とビールにハマっていることを明かした。 以前インスタライブでコラボしたこともある女優・浜辺美波からもコメントが届いていたようで、「みーちゃん、最近会えてないんですよ」と明かす場面も。 連絡は頻繁に取り合っているといい、「気を遣わずに連絡を取り合える友達ですね」と話した。 インスタライブを配信した理由については「ツイッターのフォロワー様が400万人を超えましてそれを記念にライブしたいなと思って。 フォローしてくださっている皆様、ありがとうございます」と説明しファンに感謝。一部からは誹謗(ひぼう)中傷のコメントも届くと明かし、「いいんです、ミュートするんで、すぐ。(誹謗中傷は)ダメだよねってずっと言ってるけど、なくなるものじゃないのかなと思うし。 その人と次元が違う、考え方が全く違うって思わないと、やっていけないですよね」と自らの考えを語った。そして「でも傷付いてるとかじゃないんで、心配しないでほしい。私はそれを言われるよりも、そこで“環奈ちゃん、傷ついているだろうな”ってファンの方が一緒に傷つく感じが嫌です。 嫌っていうか切ない」と心中を吐露し、「私はまったく気にしてないから」とファンにメッセージを送っていた。 教えとく人類は下を作って生きてきたのだよ 誰かを見下すことで自分の居場所や安心感を得る それが差別やいじめの根幹 そう自分はずっと無駄な努力をしてきた ずっと独りで生きていけると思ってた でも辛い想いを乗り越え 出会った全ての人に感謝する時が来た 愛することは何よりも大事なことだとわかった https://youtu.be/oAPb0mWjzfo 総合マーケティング支援の(株)ネオマーケティングによる「若者の消費トレンドに関する調査」(※)結果が公表されました。 「若者の○○離れ」という言葉が飛び交う昨今、実際に若者はどのようなことに興味を持ち、お金を使っているのでしょうか。 まずは、多くの若者の生活に密接している、SNSについての調査結果を見てみましょう。1日のうちSNSを利用している時間については、最も多かったのが「1日に1時間未満」で31.7%。一方で「1日に10時間以上」という回答も全体の2.0%を占めました。 約2割を占めた「ほとんど利用していない」との回答者以外の人にSNSへの投稿内容を聞いてみたところ、最も多い回答は「自分の好きな体験」でした。 SNSをほとんど利用していないと回答した人(n=768)は、SNSについて「友人・知人の顔色をうかがっている気持ちがする」「『いいね!』の数が気になる」「SNSの世界だけでのやりとりは窮屈(きゅうくつ)さを感じる」「『いいね!』をもらったり、お返ししたりしなければならない気持ちになり面倒」などの項目について「そう思う」と答えた人が、すべて40%を超えていました。 スマホなどのデジタルツールが普及している一方、SNSは「面倒」「窮屈」と感じている人も多いようです。 SNSをしている人に対して、SNSに限らず(誰かの反応を気にせずに)自分の好きなことやよい経験となる体験をしたいと思うかを質問したところ、全体の75.8%が「そう思う」と回答しました。 「誰かの反応を気にしなければならない環境」に息苦しさを感じている若者が多いようです。 いいねの数を誇る風潮こそ物質文明的な虚無思想 重要なのは友達の数(量)ではない その友達は本当に友達なのか? そんなんだからSNS上での表面的な浅い人間関係しか築けない 重要なのは友情の深さ(質) 英「ガーディアン」紙の記者スー・ユンは、インスタグラムを使っているとき、自慢だった記憶力が驚くほど落ちていることに気がついた。テクノロジーに依存する生活のせいで、集中力は続かない。姿勢や視力、睡眠の質まで悪くなった。 そこで、彼女はすでに「SNS断ち」を実践している5人の一般人を探し、それぞれの感想を聞いてみることにした。 看護師モーガン 「容姿のせいで『嘘だ』って言われるけど…」 30歳のモーガン・リチャードソンは、ロサンゼルスのコロナ対策ユニットの一員として働く看護師。彼女はSNSをいっさい使っていない。 SNSを持たない若い女性としての経験を語りましょう。以前、男性と交際していたとき、SNSアカウントを持っていないことで、みんな私を嘘つきだと思っていたようです。 私はかなり見た目がいいほうだから、みんなそう思ったのでしょう。「彼女は嘘つきだ。ほかの人たちを監視したり、 自分に酔った投稿をしたりする秘密のアカウントを持っているに違いない」ってね。みんな、私に理由を聞くことすらもしませんでした。 でも、SNS断ちの生活のおかげで、短い期間でも、驚くほどたくさんのことを達成できました。現在、私は学校に通いながら、フルタイムで働いています。大学院の修士課程に出願する準備もできています。 SNSがないおかげで、時間を無駄にせずに済みます。また、時間を奪うような人たちからオンラインで攻撃されることもありません。自分のためだけに、時間を使うことができます。 私はオンラインショッピングもしません。ひっきりなしに出てくるネットの広告も見ずに済むので、物欲が暴走することもありません。アプリも入れていないので、通知とも無縁です。メールが届いたらバイブレーションでわかる、それだけです。 質のいい睡眠が得られるためか、集中力も持続していると思います。看護学校にいるときは、友人たちがスマホを手にしたり、スマホを探したり、SNSを見たりしているのを何度も目にします。 私が何時間もずっと勉強している傍で、友人たちは休憩したがっていましたしね。私はGPAで4.0を獲得しました。でもそれは、私にとって妨げになるものがなく、努力を続けられたからだと思います。 私は6歳の頃からパソコンを触ってきました。パソコンが進化していく過程を見ることができたのは、とても幸運なことです。みんながお互いに繋がっていることは素晴らしいですし、私たちがオンラインでできることも、目を見張るものがありますよね。 ですが、しばらくすると、誰もがネットのネガティブな面に気づきはじめることでしょう。自分に本を読む時間や意欲は残されているだろうか? それどころか、短い記事を読む時間や意欲さえ残されていないのでは? そうしたことに気づくのではないでしょうか。 実生活で周囲の人たちと話すとき、彼らの多くが「ねえ、この人のツイッターの投稿、見た?」とか、「この人のフェイスブックの投稿、見た?」と聞いてきます。これはとてもショッキングなことでした。オンラインでの人生なんて、つまるところ何の意味もないのに。 私は彼らに「5分前、自分が何てツイートしたか覚えてる?」と尋ねました。すると、誰ひとりとして、自分のツイートを思い出せなかったのです。彼らは、誰ひとりとして充実した人生を送っている感じがしませんでした。 Russian occupation officials in Zaporizhia Oblast have obliquely declared the region’s independence from Ukraine by falsely identifying Ukrainian citizens entering the occupied region as temporary asylum seekers. Head of the Zaporizhia Oblast occupation administration Yevheny Balitsky signed an order that designates Ukrainian citizens arriving in occupied Zaporizhia Oblast as temporary asylum seekers based on Russian law. The order requires the registration of Ukrainian and Russian citizens based on their place of residence or place of arrival in the Russian-occupied parts of Zaporizhia Oblast and requires the distribution of temporary identification forms for all “stateless persons.” Ukrainians and Russians may register if they present proof of their temporary asylum application. This decree has various implications under both international law and domestic Russian law. International law states that a refugee is an individual from outside the country (or who is stateless) who is seeking “temporary asylum” in another country to escape persecution. Russian law defines a refugee as a person ”who is outside of his/her country of nationality or habitual residence.” Neither of these statuses properly apply to the majority of people crossing from unoccupied Ukraine into occupied Zaporizhia. 私が若いころ、祖父母の話を聞こうとしなかったことを思い出します。でも、いまは祖父母の話が聞きたくて仕方ありません。彼らの話は本物ですから。彼らは充実した人生を送り、記憶に残ることをたくさん成し遂げました。SNSでの出来事にいちいち動揺したり驚いたりする代わりに。 そういう私も、10年間ツイッターを使っていました。私のアカウントには1万1000人のフォロワーがいて、1日に2~5時間はツイッター上にいた気がします。それはまるで、よくない恋愛関係みたいなものです。ある時点で、「オーケー。終わりにしよう」と思うときが来る、そんな感じです。 SNSをやめた瞬間、より幸せになっていることは間違いありませんよ。今ほど精神状態が好調なことなんて、これまでにはありませんでした。 私が若いころ、祖父母の話を聞こうとしなかったことを思い出します。 でも、いまは祖父母の話が聞きたくて仕方ありません。彼らの話は本物ですから。彼らはSNSとは無縁の充実した人生を送り、記憶に残ることをたくさん成し遂げました。 SNSでの他人の出来事にいちいち動揺したり驚いたりする代わりに。 香川照之の性加害で被害者がPTSDに 下着を剥ぎ取り、キスをし、胸部を直に触り…やりたい放題セクハラ ★2 [Anonymous★] https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1661307235/ 俳優・香川照之が2019年7月、銀座のクラブでホステスに対して胸部を触る、キスをするなどの性加害に及び、被害女性がPTSD(心的外傷後ストレス障害)を患っていたことが判明した。 *** その女性・美麗さん(仮名)はトラブル翌年の20年5月、香川の暴走を止められなかったという理由で、クラブのママに対して損害賠償の請求訴訟を起こした。 東京地裁に提起された訴訟自体はすでに昨年、取り下げられているが、手元にある訴状によると、香川は19年7月に、銀座の高級クラブを訪れていた。 その訴状には、同日午後11時ごろ、当該クラブの個室で行われたこととして、こう書かれているのである。 〈訴外香川の隣にいた子が席を外したため、その席に原告が移動したところ、突然、訴外香川は、原告の服の中に手を入れ、ブラジャーを剝ぎ取った。 剥ぎ取られたブラジャーは、被告及び同行の客3名に次々と渡され、全員がその匂いを嗅ぎ、いろいろと卑猥なことを申し述べた〉 〈そして、訴外香川は、原告にキスし、服の中に手を入れ、原告の乳房を直になでまわしたり揉んだりして弄(もてあそ)んだ〉 「キスまでしていました」 その場に居合わせたほかのホステスにも話を聞いてみたところ、香川は来店当初それほど酔っておらず、陽気に盛り上げ役に徹していたという。 しかし、徐々に様子がおかしくなり、ホステスのドレスに手を突っ込んでわきを触り、匂いを嗅ぐなどの行為に及んだ。そして、極め付きが美麗さんをターゲットにしたセクハラだったという。 「彼女は明るく、酔ったお客さんをあしらうのが上手で、だから余計にいじられたのでしょう。間もなく香川さんは美麗さんのブラジャーを剥ぎ取り、その匂いを嗅ぎながら彼女をはやし立てました。 さらには美麗さんの胸元に手を突っ込んで、胸をもみはじめた。キスまでしていましたからね」 事実を質すべく所属事務所に何度も取材申請し、質問状を送り、事務所社長に直接申し入れたが、24日午前6時現在回答を得られていない。 本日発売の「週刊新潮」では、香川によるセクハラ行為の全容について詳報する。 「週刊新潮」2022年9月1日号 掲載 この世界は人間の意識の投影 「量子力学」。万物は、人間が意識したときに状態が確定する。この世は仮想現実。この世は幻。この世は全ては意識の投影。 「量子力学 現実」「量子力学 引き寄せ」などの情報が広まってきて、目にするようになってきました。 年々、量子力学からの「万物は、人間が意識したときに状態が確定する」は「思考が現実なる」の理論が証明されてきました。 現実は思考から創られる、すべては内面で起こっている」(バシャール、津留晃一、苫米地英人、デイビッド・アイク) の内容と一致しています 素粒子は人間が見たときに「物質」として確定する 素粒子で作られている万物は、人間の観測、つまり人間の「意識」が注がれたときに物質化するということ。 逆に、人間の意識が介していないときは、万物は波動であり非物質なのです。 つまり「人間こそが万物に影響を与えている創造主」であり「人間があって万物がある」という新常識を、量子力学は証明したのです。 これは「あなたの意識」が、目の前に起こる現象を決定(確定)しているということ。 つまり、良い意識をすれば、良い現象が物質化される。悪い意識をすれば、悪い現象が物質化される。 意識なくして存在するものは、この世にはないということです。 あなたが見ている「この世」も全ては幻想である この世の正体は、上の波紋のような「エネルギーとエネルギーの干渉」があるだけです。 人間を含め、万物は「素粒子の塊」に過ぎず、この世は素粒子が放つエネルギーが干渉し合って作る「無限の波紋」が、無味乾燥に広がっているだけなのです。 ところが、人間は素粒子の波紋に反射した光を「目」に取り込み、取り込んだ光を電気信号に変換し、脳が「勝手なイメージ」を作ってしまいます。 つまり、私たちが見ているのは、脳の解釈にすぎない「幻想のこの世」であり、エネルギーの干渉しか存在しない「本当のこの世」を見ることができません。 あなたが見た「美女」も、脳が勝手に作ったイメージです。本来そこにあるのは、素粒子同士のエネルギーの干渉(波紋のようなもの)しかありません 視覚だけでなく、感触、臭い、味、音、痛み、快感・・・これらの五感も、脳が作った「バーチャルリアリティ」です。 つまり、この世は「お化け屋敷」と同じアトラクションだということ。 ただ、あまりにも脳が私たちにリアリティを感じさせてしまうため、幻想だと気づかないだけです。 映画もスクリーンに反射した光に過ぎません。 しかし、その光を目から取り入れ、脳がイメージを作ってしまうため、リアリティを感じて驚いたり感動したりするのです。 --------------------- ①万物は、人間が観測(意識)したときに状態が確定する(観測問題) ②万物は、無限の可能性をパラレルに持ち、人間の意識で1つに確定する(量子重ね合わせ) つまり、あなたの意識によって現実はいくらでも変わるということ。運命やカルマは存在せず、あなた自身が創造主として、思い通りの現実を作る力を持っている。 これが量子力学から読み取れる真理です。 量子力学。「この世は100%、人間の意志で作られている」「平行宇宙と関係している可能性がある」 In Deep さんの記事に、量子力学のことが書いてありましたので、ご紹介致します。 ---------------------------------- 「繰り返し行われる量子力学実験により「この世に客観的な現実は存在しない」ことがさらに明確になり、そして「この世は人間の主観で成り立っている」ことが否定できない状況に」 オーストラリアの大学の物理学者たちが、量子力学の実験により「現実というものは、人間により観測されるまでは存在しない」ことを示したことをご紹介したものでした。 ・《特報》「人間によって観測」されるまでは「この世の現実は存在しない」ことを、オーストラリアの量子学研究チームが実験で確認 In Deep 2015年06月06日 この時の私は、「やだ、何それ? チョー驚く」みたいなギャル的な感嘆を示していただけでしたが、そのうち、問題の本質は、「この世に客観的な現実は存在しない」という「ほうではない」ということに気づいてくることになりました。 では、問題の本質は何かというと、「この世の現実を創り出しているのは人間という観測存在だった」というほうなのですね。 量子力学が示すふたつの事実 ・客観的な現実というものは、人間が観測するまでは存在しない ・この世を構成する粒子は「人間の意志で変化する」 このふたつが示すことは、「この世は100%、人間の意志で作られている」ということです。 現実には「なーんにもない」のです。 この世には何も存在しない。 さきほどの「量子」にしても、そういう最小単位の物質が、どのようにして生まれるかご存じでしょうか。 「何もないところから生まれている」のです 無 - Wikipedia より 古典物理学において、物理的に何も無い空間を真空と呼び、真空は完全な無であると考えられてきたが、現代物理学においては、真空のゆらぎによって、何も無いはずの真空から電子と陽電子のペアが、突然出現することが認められている。 このことによって、現代物理学では完全な無(絶対無)というものは物理的に存在しないとされている。 そして、「何にもないところから出現した量子」は、「人間の意志で動く」ということになり、そのようにして、この世は存在しているようなんです。 いや、「存在していない」のです。「意志だけが漂って」いる。 「シュレーディンガーの猫」という思考実験の名前が出てきますが、これは難しく言い出すとキリがないものですが、 「箱の中の猫が生きているか死んでいるかは、観測者が箱をあけるまではわからない」 ということで、これは「生きているか死んでいるわからない」という意味ではなく、箱を開けるまでは「どちらの現実も同居している」というような意味かと思います。人間が観測した瞬間に、「どちらか」になる。 実験が行われるまで、科学者たちは、量子力学によって 2人の観測者が、それぞれ異なる「矛盾する現実」を体験できるという見識について長い間疑ってきたが、実験の結果は、「客観的な現実は存在しない」ことを示した。 科学誌サイエンス・アドバンシズ(Science Advances)で最近公開された研究では、量子力学の奇妙な規則によって支配されている原子と粒子のミクロの世界で、2人の異なる観測者のそれぞれが「自分だけの現実の権利」を持っていることが示された。 記事の中で最初に取り上げられる物理学者で、つい最近この「現実は存在しない」ことについての論文を発表したグリフィス大学のジョーン・ヴァカロ教授という方は、女性科学者です。 ジョーン・ヴァカロ教授 ・Joan Vaccaro - Quantum theory of time ヴァカロ教授は、「ひとりひとりが、その人だけの現実を持っている」としていて、そして、その現実は、観測により変化していくとしています。 おそらく、「瞬間、瞬間で、私たちの現実は宇宙ごと変化している」可能性があります。 こんにちは こんなアカデミックなスレがフイタにあったとは ちんぽろりんの家はテレビないんか そういえばあまり気にしてなかったけど俺もテレビは持ってない 実家にはあるけどね 家の固定電話に続いてテレビも一家に一台という時代ではなくなって来てるのかな >>159 ラーメンはジャンクフード 名言だと思う 俺もラーメンは好物だけど、日常的に食べない方が良いとは思う >>163 俺も最近気付いたんだけど、呼吸を整えるのはマジで効果あるね 体調が凄い不調になったときに呼吸が乱れる、小刻みで不安定な呼吸になったりとか そんなときに、あえて深呼吸したり意識して安定した呼吸をすると体調も回復するんだよ不思議なもんで 俺だけかもしれないけど >>174 まんま同意 高級なもの=体に良い ではないからね >>207 同意 俺はカントリー聴いて癒やされてる 生の楽器はいいね >>213 これも本当に酷い話だった 少額の罰金だけで済まされたのも胸糞悪い 体や食に関することは共感するものばかり いちいちレスしてるとウザいだろうからこれ以上は控えるけど >>242 実家が東京でいま地方に住んでる俺にも興味深い話になってきた けど一旦休憩 >>496 セレガさん初めまして わざわざ読んで頂きありがとうございます 共感出来ないなら批判してもらって結構ですよw 批判してもらってて 全部他人のブログの転載だけどね タゴール:この世界は人間の世界です。世界についての科学理論も、所詮は科学者の観方にすぎません。 アインシュタイン:しかし真理は人間と無関係に存在するものではないでしょうか?例えば、私が見ていなくても月は確かにあるのです。 タゴール:それはその通りです。しかし月は、あなたの意識になくても、他人の意識にはあるのです。人間の意識の中にしか月は存在しない事に変わりません。 アインシュタイン:私は人間を越えた客観性が存在すると信じています。ピタゴラスの定理は、人間の存在とは関係なく存在する真実です。 タゴール:しかし科学は月も無数の原子が描く現象であることを証明したではありませんか。あの天体に光と闇の神秘をみるのか、それとも無数の原子をみるのか。もし人間の意識が月だと感じなくなれば、それは月ではなくなるのです。 皆様はこの対話を聞いてどうお感じでしょうか。 アインシュタインの願いもむなしく2019年になって少なくともミクロのレベルでは「客観的な実在」を否定するような実験結果が発表されました。 その実験の基になったのが1961年のノーベル物理学賞受賞者ユージン・ウィグナーによる「ウィグナーの友人」という思考実験です。 ウィグナーは「私たちのどう見るか(認識するか)の意識こそが、世界を変える」と述べています。 >>510 マリアさん初めまして まだ途中までしか読んでないけど、スポーツや歴史のことは分からないけど共感することが多いですよ マリアさんはつるかめクリニックのお医者さんか看護師さんなんですか? ユージン・ウィグナーが統一教会のシンパだったのは有名 この世界の本質は波動(エネルギー)の世界で 常に不確定 人間の意識が介入すると状態が確定する 相手の承諾なしで勝手にコピペしてんのか?て聞いてるんだけど >>257 人はなぜブランドにこだわるのだろう 面白いテーマ >>260 金持ちが金を持っても心が満たされない話 上には上がいるのでいつもその人たちと自分を比べてしまいキリがないからと聞いたことがある お金無くても満足できる人は、最初からその時点で満足なのだと >>264 自分探しはすでにある自分を否定するのと 良いこと言うなあ マリアのスタンスが今頃になって分かった まず引用元のURLをここに貼ってから、その中身の一部を紹介してるわけね >>275 紅葉はまさに今が旬 単なる通勤や買い物も楽しくさせてくれる >>280 京都ではないけど、それとなくデザートを出されて、長居しすぎちゃったかなと思ったことはある >>302 地方もいいところたくさんあるんだけど、でもやはり若者は都会に出ていってしまうね そして過疎化していくんだけど、不動産が買うのも借りるのも都会に比べて桁違いに安いのは良いかな >>342 洗濯機、掃除機、冷蔵庫、電話、テレビなどが発明されて一般家庭に普及され始めた頃が、生活スタイルも激変しだして一番エキサイティングな時代だったんだろうなと想像する 今の電化製品は機能も普及も十分行き渡っていて、あってもなくてもどうでもいいような付加機能で差別化を図ろうとしてる感じで新製品にあまり魅力を感じない >>349 たしかに、今はスターっていない気がする AKBとか乃木坂とかジャニーズとか人気のグループとかはいるけど、 スターはいない気がする >>350 分かるとつまらなくなる まだ地球が丸いかどうかもよく分からなかった頃、コロンブスが新大陸発見とかしてた時代はさぞかしロマンに溢れていたんじゃないかと思う >>353 子供の頃、あんなにワクワクして食べた駄菓子なのに、大人になるとまったく魅力を感じなくなってしまった これ原料は何?着色料すげーなとか余計なことばかり気になってしまうし それを乗り越えて食うとノスタルジーでたまらなくなるぞ >>535 それもいいね 今日も休みだから、酒のツマミにできそうな駄菓子を買ってきてノスタルジーに浸ってみる日にしてみようかな たしかドンキに売ってた気がする よっちゃんイカみたいなんはツマミに合いそう ヤングドーナツを大人になってから気の迷いで食ったら カッサカサでマズくて思いっきりノスタルジーで それ以来クセになってキャンプ行く時の買い出しで最後にカゴに入れてしまうw >>538 カッサカサでマズくても、ノスタルジーが上回って買ってしまうんだね 味って、そういう思い出なども詰まった上での味なんだろうね そうえばサクマ式ドロップスが生産終了するらしいね 普段買ってたわけではないけど、なんだか寂しい まだサクマドロップスがあるぞ 佐久間製菓(サクマ式ドロップス)が廃業でサクマ製菓(サクマドロップス)は存続中 子供のころ食ってたのはサクマ製菓の方だったがな 不人気のハッカ味が好きだったw >>493 物理の話なんだろうけど、哲学の話みたい やっと追いついた! 面白かった >>540 別会社で存続するものがあるんだね ハッカね! ハッカの良さが分かるようになると少し大人になった気がした少年時代w 金や物に囚われ 自分に執着する そして周りとの繋がりや愛に感謝しなくなる 必要なものは既に自然界から与えられている それ以上のものは人間の欲 結局人間て幾ら贅沢しようとしても食べられる量もお金を使える量も限られている 幾ら家を持ってても住める家は1軒だけ 必要最低限の暮らしで生きるべき 金や物に心を囚われてると中身が無い空虚で幻想的な世界になる 必要なものは既に足りてる 自分は常に少欲知足で生きていきたい 今あるもの今ある現状に感謝してそれ以上のものは欲しがらない 金や物は必要なものだけど膨らみ過ぎると必要過多で必要過剰なものになる 得られると一時の満足感や幸福感は得られるかもしれないけど ずっと続くわけじゃない 消費したり得たりすると途端に空虚な気持ちになったり飽きたりする それより(金や物より)も遥かに大事なのは 家族や他者との繋がり 愛や思いやり そういう目に見えないものに感謝出来た時 既に自分には沢山の幸せがあることに気付けるし 既に自分は満ち足りてることに気付ける 減少する年収、不安定な生活に不安を感じるビジネスマンが増えていることと思います。わたしたちは、なぜ、こんなに、お金が少なくなることに心を惑わされてしまうのでしょうか。 お金の価値と働きがい、仕事のやりがいについて、どんなふうに考えたらよいのでしょうか。お金の価値を感じるのも、仕事のやりがいを感じるのも、「心=ココロ」です。 心という存在は、「ココロ、コロコロ」のように実体のないもので、科学的に「心とはこれである」と解明されているものではありません。 「勝った・負けた」「得した・損した」といって一喜一憂するのも心、そのあらわれ方は百人百様です。 同じような環境にあっても満ち足りた気分になる人もいれば、おおいに不満を覚える人もいます。お城のような邸宅で暮らし、毎日ご馳走三昧でも幸福感がやってこない人もいれば、極貧生活の中にも楽しみを見出し、 麦飯と味噌汁だけの質素な食事をしみじみ味わえる人もいます。 そう考えると、豊かな不満社会に生きる現代の日本人は、環境にかかわらず概して不満傾向にあるといえるのではないでしょうか それでは、職場でも家庭でも、移ろいゆくさまざまな場面で、環境やモノに左右されず、豊かな心を保ち、充実した生をまっとうするためには、わたしたちはどのように考え、日々を送っていけばよいのでしょうか。 それなりにいい家に住み、いい車に乗り、いい服を着てブランド品をたくさん持っていても、不満は不満、そして不安は不安。 心がそう感じる理由を解き明かしていく前に、ぜひとも耳を傾けていただきたい言葉があります。 「道は貧道より尊きはなし」 これは江戸中期の禅の中興の祖・白隠禅師の言葉で、意味は「たとえどんなに貧しくても、その日暮らしであろうとも、心だけは王侯貴族のような気持ちでありたい」。 つまり、物質的な貧しさと心の貧しさは共にあるわけではなく、たとえお金が十分になくても、心のあり方一つで働きがいを得られ豊かになれるということです。 「道は貧道より」の言葉から思い浮かぶのが、私も尊敬する偉人の一人、あの良寛さんです。 「100石(俵)6人泣き暮らし」は武士の貧乏暮らしをあらわす言葉で100石の禄から藩に納める分を差し引けば、残りはわずか。家族と使用人がぎりぎり暮らせる程度しか手元に残らなかったそうです。 しかし町人や商人のほうが経済的な余裕があったにもかかわらず、武士たちはプライドと高い精神性を保っていました。 藤沢周平原作の映画『たそがれ清兵衛』にも、こうした幕末の下級武士の世界が描かれています。 主人公の清兵衛は、家族を支えるために城中の仕事が終われば“たそがれどき”にさっさと帰宅し、夜は虫かご作りの内職に励み、庭に畑を作って野菜を育て、 いつもほころびた着物を着ていました。ただし、心は決して貧しくありません。 畑の野菜や草花が日々育っていくのを見ては楽しみ、娘が成長していくのを楽しみ、貧しいながらも日々の生活を楽しんでいました お金やモノに流されずいつも清々しく豊かな心を持ち続けるということは、できそうでなかなかできないことです。なぜなら、わたしたち人間は「二元論的思考」をする生き物だからです。 二元論とはモノと心、善と悪、金持ちと貧乏、好きと嫌い、失敗と成功、エリートと落ちこぼれ、勝ち組と負け組というように対立する概念で物事を捉えることで、白と黒の間のグレーゾーンはありません。 この二元論的思考が根底にあると、私たちは凝り固まった小さなモノサシや自分の価値観に振り回されることになります。 「富と貧」「勝ちと負け」を区別して比べる心です。両者を対極において見るために「勝ち」になれない自分が苦しくなってしまうのです。 元来、禅の世界では二元対立を嫌い、排していきます。そして絶対の主体性を目指します。 ここで強調しておきたいのは、皆さんがとらわれている考え方、判断の仕方などは、実はすべてあなたの周りが勝手に創り上げた既成概念、いわば「雲」のようなものにすぎないということです。 この既成概念による小さなモノサシを破壊しないかぎり、心の改革はなされません。 「モノ」や「お金」の量にかかわらず「なんだか満たされない」のは、物質社会がつくり上げた既成概念に縛られすぎているために、 本来得ている働きがいや生きがいに気づけなくなっているからです メッシ シャビ イニエスタ ブスケツが織りなすアメーバのような三角形 後世に語り継がれるべき ウクライナ戦争とかコロナとか暗い話が多い中で、こういうスポーツで世界中が平和的に夢中になれるって素晴らしいことだと思うんだけど、 オリンピックも今回のワールドカップも闇の部分が大きいのがちょっとね 6000人くらい亡くなったらしいし read.cgi ver 08.1h [pink] - 2023/09/20 Walang Kapalit ★ | uplift ★ 5ちゃんねる