2025.1.26. #何事も必ず産まれては死ぬもの

今日は頼まれごとがあったので、いつもより早く起きて、洗濯機を動かしている間に用事を済ませ、明日からの食事を少し買っておく。
コインランドリーで乾かしている内に1/31に閉店が決まっているコンビニのイートインで句と詩を書く。
2月からはどうしようか考えるが、コインランドリ一の椅子が固定式でテーブルとの距離があるため座って書くという作業ができない。
家から近いコインランドリーは現金オンリーだが書くということはできる。さてどうしたことか。
2月からは本を持っていって読書になるのかな。そして家か出先で記録を書く感じか。
早く起きて洗濯や買い物などを済ませたもうひとつの理由は、14時から「94歳のゲイ」の追悼上映がポレポレ東中野で行われるからだった。
昨年11/10にこのドキュメンタリーに出演していた長谷忠さんが逝去された(「長谷康雄」名義で現代詩手帖賞を受賞したときの選考委員にかの谷川俊太郎氏もいたが、氏も11月に逝去されていることにどことなく運命を感じる)。
改めて観てみると、とてつもない儚さを感じてしまうとともに、上映後に監督と映像の後半に出てくるボーンさんが登壇されて、長谷さんが亡くなられたときのことや、葬儀のときのことを語られていた。
改めて観ることで長谷さんの想いにも触れられた。
人もモノも場所も産まれては必ず消えていく。
その悲しさについて改めて考える必要がある。その過程の中で出逢ったこと、起きたことについて、亡き後に生きる人から記憶がなくなることはない。
どんなときもそうだ、だから生きるのかもしれない。