>>301
ユーミンの原盤ディレクターをやるようになって初めて僕は歌詞の重要性ということを意識するようになった。
松任谷はそれだけ歌詞には拘りがあった。僕が得たもので一番大きかったのはこのことかもしれない。
僕と松任谷はある意味とてもよく似ていた。感覚とか好みとかそんな部分で。
大物アーティストの宿命なのか、ユーミンがスタジオに連れてくる女友達というのはいわゆる取り巻きの、金持ちの道楽娘(と言ってもオールドミスだ)ばかりで、ゲスト面してロビーのソファの真ん中にでんと座ったりするので僕はそれが気に入らなかった。
その点では松任谷と僕はまったく同じ意見で、松任谷もユーミンの友だちと称する連中を嫌っていた。で、電話がかかってきたのを切ってやったなどと僕に得意げに報告するのだった。
歳こそ違うもののそんな感じで共通点が多く、なんだか知らないけど僕はいつの間にかすっかり松任谷に信頼されるようになり、2枚目のアルバムからはボーカル録りやボーカルチャンネルのセレクトを任されるようになり、上司のアベに言わせるとそれはキララシャ始まって以来のことらしく、そんなの見たことがない、と言われた。
アルバムの曲順やシングルをどれにするかなどということも松任谷は僕に相談した。
そんなわけで皇室の誰かさんがお気に入りだという「Anniversary」がシングルのA面になったのは僕の意見だった(東芝のシモコウベさんはホームワークだった)。

そんなわけで僕は一年に2度、トータル2ヶ月ぐらいはロスで過ごした。
現地で使うミュージシャンはドラムのジョン・ロビンソン(JR)とかベースのエブラハム・ラボリエルとか、ホーンアレンジのジェリー・ヘイとか、当時世界で一番売れっ子のミュージシャンたちだった。僕は学生のころ、彼らの演奏するレコードを聴き漁っていたんだけれど、不思議なことに仕事となると何の違和感もなかった。
ドラムのJRが僕がその2ヶ月ぐらい前にアルバムを買ったシンガーのフレディ・ワシントンを連れてきたりしたし、僕がもっとも好きなアルバム、ジノ・ヴァネリの「Brother to brother」でパーカッションを叩いていたマイケル・フィッシャーとジノについてスタジオの廊下で世間話をしたりした。
サンセット・スタジオの隣ではマイケル・ジャクソンが「BAD」のレコーディングをしていた。僕の駐車場所はマイケルの隣だった。
なんていうか、一流の仕事をしていると一流の人間と仕事をするのが当たり前になる。それが普通になる。そういう意味では僕はミーハーではなかった。

僕が最初に担当したアルバム、「LOVE WARS」は前作の倍売れてミリオンセラーになった。
それで僕はオリコンのチャートの一番上に名前が載った。いろんな人にユーミン育ての親とか茶化された。
しかし、実際は冬のボーナスがひと月分多かっただけだった。いやはやまったく。たかが数人の会社なのに。
日本の音楽業界なんてそんなもんだ。スタッフは儲からないように出来てる。