【国際/コラム】私は、韓国に謝りたい。ーーー日本人として、過去と向き合うということ

私は日本人だ。そして同時に、韓国に対して真摯に「申し訳ない」と思っている一人の人間でもある。

それは流行でも、感情的な自己否定でもない。歴史を知った上での、ごく当たり前の結論だ。

■ 日本には、加害の過去がある

これは「意見」ではない。史料があり、国際的に議論され、記録されてきた歴史的事実だ。

日本の植民地支配、慰安婦問題を含む戦時下の人権侵害、強制動員の問題、そして現在まで尾を引く領土・歴史認識をめぐる対立...

これらは、「もう終わった話」「蒸し返しているだけ」と片付けられるものではない。被害を受けた側の記憶が続いている限り、終わってはいない。

■ 「謝る」とは、屈服ではない

日本社会では、謝罪=自国を貶める行為と誤解されがちだ。

しかし本来、謝罪とは過去を正確に認識し、責任の所在を理解し、同じ過ちを繰り返さないと誓う行為だ。

それは国家間の力関係とは別の、人としての誠実さの問題だ。

■ 韓国が「しつこい」のではない。忘れないことを選んだだけだ

韓国が歴史問題を語り続ける理由を、「反日感情」と一括りにするのは簡単だ。

だがそれは、被害の記憶を持つ側にしか分からない重さを無視している。

人権を踏みにじられた記憶、尊厳を奪われた歴史、名前も語られず消えていった人々...それを「もういいだろう」と言えるのは、常に加害側だけだ。

■ 私は、韓国を尊敬している。だからこそ、謝りたい

皮肉なことに、私は韓国の文化、努力、現代社会での躍進を深く尊敬している。

だからこそ思う。これほどの国に対して、過去に深い傷を与えた事実を軽視してはいけないと。

尊敬と謝罪は、矛盾しない。むしろ、尊敬があるから謝罪できる。

■ 国家でなくても、個人は態度を選べる

私は政治家ではない。国家を代表して謝罪する立場でもない。

それでも、歴史を学び、加害の事実を否定せず、被害を受けた人々の声を軽んじない、その姿勢を持つことはできる。

「私は、あなたたちの苦しみを軽く扱わない」それだけでも、態度としての意味はあると信じている。

■ 結論:謝りたいと思うことは、弱さではない

私は、日本人であることを否定しない。同時に、日本の過去の行為から目を背けない。

その上で、言いたい。韓国に対して、申し訳なかった。その歴史を、なかったことにしない。

それは終わりではなく、ようやく始まる対話の前提条件だと思っている。