現代電子対話論の観点から見れば、落書きなどではなくもっと生々しいもので
言ってしまえば、人間の排泄物のたまり場、いわば「肥溜め」である。
他人の排泄物を食べて自らにインプットし、排泄物として同じ肥溜めに向けてアウトプットするのである。
ハイブリッドと言う言葉が浸透してから久しい昨今だが、まさに現代人はハイブリッドに生きている。
インターネットの掲示板の投稿と述べたが、その行為は、実際は人間が知れぬほどの広い場所で行われている。
TwitterなどのSNS、ブログのコメント欄、さらにはLINEなどの数人程度で行われる井戸端会議でさえも
同じ行為は、日々、絶え間なく行われている。
つまり現代の人間たちは、他人の排泄物に「好き」「嫌い」と論評を書きおろし、その排泄物さえも、論評の対象にしているのだ。
その行為を続けていけば当然。肥溜めの養分は薄れていき、ただの薄黒い何かの集合体となってしまう。
結果、その排泄物に論評する者は、やがていなくなる。
これはコンテンツの衰退と言うもので、つまり肥溜めの管理者は、こうならないように養分となる糞や尿を、肥溜めに注ぐ必要ある。
特に現代では、その肥溜めを利用する人数が多くなり、肥溜めの養分が薄れやすくなる傾向があるため、管理者は養分の管理に日々奔走されている。
しかし、肥溜めの利用者は、上記の者だけではない。なにせこの肥溜めは、パブリックスペースと言う名に於いて、誰もが利用可能なのだから。
この肥溜めを、自らの私腹を満たすために使う者、そして毒を流し、その畑や利用者さえも、自らの毒牙に犯してしまおうと考える者もいるのだ。
自分にとって都合のいいレスだけを拾い、それを肯定し、あたかも大衆がそのように思っているかと思わせる。
その「大衆」こそが、彼の毒だとしたら。
常識と言う「長いもの」に巻かれることで生きてきた現代人なら、毒だと知ることは出来ず、自らの畑、そして自分自身にインプットし
肥溜めに、堂々とアウトプットてしまうだろう。