(言語と思考形態のウソ)

風俗・グッズなどは、かなりアバウトに、日本でいうと天智天皇より後の雰囲気になるとマズイけど
聖徳太子あたり頃までだったらまあいいか、って感じでいってますが、まあ適当です。

言語は・・・現代語でいくしか無いのですが、言語が現代語である限り、
思考形態も現代の思考形態になってしまっているんでしょうね。
使っているコトバは、ありえないコトバでもあえて使っている部分もあります。
前に、‘なんちゃって古代’と書きましたがこのあたりが一番の‘なんちゃって’になってるウソの部分だと思います

言葉・・・消えていった言葉もあるだろうけれど、恐らく、物が増えるたびに言葉ってどんどん増えていってるんだろう
と思いますが、それによって、古代の人間と現代の人間って、どのくらい思考が違うんだろう?

言葉が無いことでも、人間は考えることができるんじゃ無いかな、あの感じ・・・とかいうもやーーっとしたことで・・・とも思うけど、
やはり言葉が無いことを考えるのは、AだからBだろう、BならきっとCだろうなどという思考実験みたいなことは、困難でしょうね                                               

逆に、地動説か天動説か、などということだと、
古代でも直感的に地動説っぽい考え方をしていた人は居たんじゃ無いかな、と思ったりします。

心理トリックみたいなものは、成立するのとしないのがありそうだと気付きました。
じっさい「錯視」を使って考えてた展開があって、書きすすんでみたら、待てよ、現代人なら成立するけどアニやナギだとあり得ないな、というものがありましたw
>ーーー< と <ーーー> みたいな単純なものは変わらないのでしょうが、錯視みたいなものも、時代によって変わるということだな、と思いました。
脳の錯覚、というけど、固定したものでは無いですね。
だから逆に、古代でしかあり得ない錯視もあって、ただそれを今書いても、きっと面白くもなんとも無いでしょうねw