MASARU 独白

>>9

>>45までで、あにぃと俺の物語(砂の岬)の第1部が終わった感じかな

 「彼」を見ているうちに、まあ桃尻のせいが大きいんだと思うけど、どんどん自分のヰタ・セクスアリス的なものの方向に行ってしまう。
 あっちでやってた、知恵遅れの青年と少年の物語から抜け出せなくなってる。
 ショタというと大人の視点で見る少年なんだけど、ヰタ・セクスアリスはショタ側から見た性の世界で、色んな意味で「彼」は俺をそっちに向かわせるような気がする。
 ショタから見た憧れという意味あいでも、ショタ自身という意味合いでも。
 これは女性も同じなんじゃ無いかな。「彼」は、ロリから見た憧れのお兄様でもあり、ショタそのものでもあるんじゃ無いかと思う。
 
 乳牛を出したのも、それなんだ。
 中坊の頃だったと思うけど、アメリカ黒人の民話だったか、アフリカ黒人の民話だったか忘れたけど学校の図書室で借りてきた本で、女を見たことが無い少年だか青年だかが初めて「真っ白な乳牛」を見て、懐かしいような切ないような気持になる、って話ですげー興奮したことがある。
 恋とも性欲とも家族愛ともつかない、未分化な感覚ね。
 (今回ちょっと失敗したなと思ったんだけど、話を聞いてる側には、俺の「乳牛」は四つ脚では無く、二つ脚だと思われてしまったかも知れないね。俺たちと見た目はそっくりだなんて言っただけだったのが、舌足らずだった。
 でもこの集落の乳牛はあくまでも原則、四つ脚のつもり。次回あたりでフォローするつもりだけど遅かったかも)

ヰタ・セクスアリスと、民話(?)エスニック的土俗 っていうのは自分の中ではどうもつながっているようだし
少年時代の加虐・被虐・介抱したいされたい感覚の延長がどんなものになるのか?というのも、有史以前のほうが展開しやすい気がするので
自分の気持ちが一段落するまでこの設定でと。

 今回は、昔話(?)を展開するにあたって色々調べることも多くてそれも面白かったんだけど、
>>38-41は、天岩戸のアメノウズメの神懸かりストリップが原イメージ
 *古事記
 「槽伏(うけふ)せて踏み轟こし、神懸かりして胸乳かきいで裳緒(もひも)を陰(ほと=女陰)に押し垂れき。」(岩波文庫版)
*日本書紀「巧みに俳優(わざおぎ)をなし」
 日本書紀は面白いことを演じて皆を笑わせたというだけなので、天岩戸ではストリップまでは、やってないんだな。違うシーンでは、やってるようだけどね。
 色んな解釈があるようだけど、自分はそれを見ている神様たちが「どっと笑った」というのと、アマテラスは女神なのにこれで岩戸から出てきてしまう、というのが興味深かった。

 もう一つ、BGMも是非聞いて下さい。まあ、面倒くさいだろうし、曲の歌詞や題材は割と無視していて、自分のフィーリングだから、85%は自分の自己満足なんだけど。
 こういう遊びも出来るのが活字だけじゃ無いネットの良いところで、youtubeとはいえリンク貼るまではどうかなというのもあるから、5CHの過疎スレでしか出来ない事だと思うのでやってますw