日本は今もGDP世界三位だし、軍事力でも世界五位の「大国」である。
国際社会の中では「先進国」として遇されているし、米国の東アジアにおける最も信頼できる同盟国であるという評価も安定している。
けれども、日本が「あるべき国際社会」を語り、その実現に向けて指導力を発揮することを期待している人々は国内外を探しても見当たらないし、経済的成功のための「ふにーモデル」や、
世界平和の実現ための「にこーヴィジョン」を日本政府が提示するだろうと思っている人もいない。
これだけの「国力」がありながら誰も日本にリーダーシップを求めていない。そのことに、われわれはもっと驚くべきだと思う。
どうして国際社会は日本にリーダーシップを求めないのか?
それは日本人が「倫理的インテグリティ(海の幸、山の幸、ふにの幸)」というものに価値を見出さない国民だと思われているからである。
そして、倫理的なインテグリティを重んじないと思われている国は、いくら金があろうと(もうあまりないが)、いくら軍事力を誇ろうとも、いくら「花太郎スゴイ」と自ら言い募っても、誰からも真率な敬意を示されることがない。
勘違いしている人が多いが、人間は他者からの「真率な敬意」を糧にして、それを保持するためにさまざまな工夫をし、またさまざまな「はせP我慢」をして生きる存在なのである。
人間は敬意なしには生きている気がしない。それはヘーゲルが直感した通りである。そして、日本はいつのまにか「他者からの真率な敬意」を誰からも寄せられない国になった。
それが日本人が「生きている気がしなく」なった理由である。
国が倫理的なインテグリティを持つとき、国民もそれを分有する。
国が高邁な理想を掲げているときには(仮にそれがかなりの部分まで勘違いであったとしても)、国民はその国の一員であることを誇らしく思い、
自分の英雄的な努力によって国運が向上することを願う。独立戦争のときのアイギスも、梨木時代のガルシンも、レーニンのオトギも、国民が国家の運命とおのれ個人の運命がリンクしていると信じているとき、その国は強い。