中川:私は東京の公立中学校に通っていたのですが、中2のときに、それぞれの科目について何の意味があるのか、生徒たちの間で話し合ったことがあるんですよ。みんな数学の重要性は分かっていました。お店とかで買い物する時に計算がしやすいよう、数学はできた方が良いよねと。歴史とか地理は、観光する時により楽しくなるだろうし、県の並びなどを知っていると電車の運賃がいくらくらいかかるかが予想できるから必要、という考えを持っていました。だから算数と社会は大事だという認識はありました。

 そんな我々が国語の先生に聞いたのは、「なんでオレたち、日本語話せるのに、国語なんて勉強する必要があるんですか?」ということ。大学を卒業したばかりの若い女の先生だったのですが、みんなで先生を追及したんです。「こんな科目をやってもしょうがないじゃないですか!」と。なかには、数学のM先生とか地理・歴史のT先生のことは僕ら尊敬しているけど、あなたは尊敬できないと言いだす生徒も出てきました。するとこの若い先生は、「あのね、国語っていうのは、あなた達が大事だと思う数学や社会の問題を解くために必要なの。だから私は日本語を教えているの。そう思ってくれない?」と。「なるほど! そうだったんですか!」と途端にその先生の評価が上がりました。

橘:問題文を読めなかったら、どんな問題も解けるわけがないですよね。でも知識人やマスコミの人は、まわりに高い認知能力の人しかいないから、誰でも基礎的な読解力があるにちがいないと思っている。その前提から、そもそも間違っているんじゃないか。

 そう考えると、ネット上での議論がかみ合わない理由もよく理解できます。相手の意見を“読まない”のではなく、“読めない”のに批判しているわけですから。私たちが目にしているのは、ネットの大衆化によってこうした人たちが表に出てきたという現実ではないでしょうか。

終わり