いやー、それにしても子供って無邪気でいいですね。脈絡もなくうんちって言葉だけで爆笑できるし、僕を含む大半の大人は純粋に楽しい気持ちにさせてもらっていましたので。その子に「大きくなったら何になりたいの?」とありがちな質問をぶつけてみました。そしたら「カレーパンマン」と即答するので、「なんで?」と理由を聞くと「黄色」と言うのです。素直な答え過ぎて、僕にはいまいち要領を得ないのですが、この子の将来を楽しみに思いました。
他人の子供なのに希望を感じたり、はたまた不安を感じたりするのはなぜでしょうか? 自分の将来にそれほど影響があるとは思えない存在なのに他人事にしないのは、「僕」や「私」という個人ではなく「我々」や「うちら」という大きなくくりの主語で物事を考えるようになっているからでしょうか。次の世代に何を残せるのか、何を伝えられるのかといったような、多くの場合で老害の温床になる考えが芽生えてきてるのかなあと思うのです。
大きなくくりの主語ではなく、個人的な主語で物事を考えたときに、親が自分の子供に対してこういう人生を歩んでほしいと思うのは自然なことでしょう。
「お母さん(お父さん)は、あなたのためを思って言っているのよ」と叱る時、その親は、子供を自分の所有物のように考えず、社会全体の財産として私的感情より公的価値観にのっとり子供の幸せを願って、叱り導こうとしているのか。もしくは、親になる前から存在した個人の願望や価値観を子供に学ばせ(押し付け)たり、自分がなしえなかったことを代わりにやらせようとしている(身代わり)のか。きっと多くの場合は後者でしょう。
食事の席でうんちと言ってはいけないのは、これから食べるのに排泄物の名称を取り上げるのがふさわしくなく不快な思いをする人がいると予想されるからか、そのお母さんが恥をかくからか、それとも、ここで叱らないとこの先も食事の席でうんちと口走ってしまう人間になっていくと危惧したからか。なぜうんちと口走ってはいけないのか訳を説明しない叱り方は、母親の個人的感情の押し付けだと子供が受け取っても仕方ないでしょう。
その子供のことを本気で思って、叱ったり、教育したり、関わる時は、個人的な価値観に基づく主観や感情だけを口にするのではなく、もっと大きなくくりの主語での価値観に基づき、普遍的かつ現実的なことを中心にするのがいいと思います。その方がより多くの場合や、多くの人に適切な対応ができる社会的な人間になれ、生きやすくなると思うからです。
でも、個人的価値観と社会的適応性が一致することが必ずしもその人のためになるのか、生きやすい人生になるのか、幸せな人生となるのかはわかりません。
子供はすべて社会全体の宝物として大切にしていく考え方は正しい気がしますが、それは、その子供たちが社会から受けた恩恵をいつか、必ず、社会に還元するものだという前提が隠れていると思うんです。現代を生きる人間が社会から離れて生きていくことはできないから、個人的価値観より社会的価値観にのっとって生きていくべきというのは、個性を大切にしろという個人主義とは本質的に矛盾します。
個人の自由や価値観を尊重しつつ、社会にも適度に対応を、関係、還元出来るのが理想だと僕は考えます。そのバランスを取れるようになるために、教育があったり政治があるのではないでしょうか。教育にも、社会的視点のもの(学校)と個人的視点(家庭)があります。どちらも大切で、そのバランスがポイントでしょう。
続く
以下ソース
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