日本古来の正月の祝い方、など近年「伝統」を枕詞に、その良さを見つめ直そうという訴えかけが目立つ。評論家の呉智英氏は、彼らが言う伝統とは、本当は“現代の流行”であることが多く、本来の意味を理解していないことが多いと指摘する。呉氏が、誤った伝統理解による保守主義に対して疑義を提示する。

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 近年保守派・保守主義が優勢になっているらしい。何を「保守」すべきかといえば、まず伝統だろう。しかし、伝統の意味を誤解していては話にならないし、昨日今日の流行を伝統だと思い込んでいては大恥だろう。ところが、現実にはそういう論者が多いのだ。

 保守系紙産経新聞に裏千家前家元の千玄室がコラムを連載している。一月十三日付では子供論・教育論を語っているのだが、これが何とも奇妙である。

 最近小学校の“騒音”への苦情が多いが、「本来子供は元気に走り回り声を出すものだ」とし、万葉歌人山上憶良の「銀も金も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも」を引用して「子供は社会全体で育て」るもの、とする。

 論旨は常識論であり、それはいいとして、ここに憶良の歌を引用するか。子供は社会の宝、国の宝だと言いたいらしいのだが、この歌はそういう意味なのだろうか。

 憶良の歌の前には詞書がある。

「至極の大聖すら、なほ子を愛したまふ心あり。況むや世間の蒼生、誰か子を愛さざらめや」(至上の大聖人釈尊でさえ、なお我が子への愛着に囚われている。まして世間の衆生は誰が我が子に愛着しないでいられようか)

 たいていの対訳本には、この「愛」は現代的意味の愛ではなく、我執、執着という否定的な意味だと注釈が付く。「子煩悩」は字義通り考えれば、子供は知恵の完成を煩わせ悩ませる存在だという意味になる。釈尊でさえ「子煩悩」なのだから、俺はうちの子が可愛くてしょうがないんだよ、誰だってそうだろ、というのが憶良の歌の主旨である。

 子供は社会の宝だの国の宝だのとは正反対の歌であり、そこが名歌たるゆえんなのだ。新元号「令和」の出典が万葉集だというので民族派は大喜びし、万葉ブームも到来しているらしいが、代表的な名歌さえ誤読されている。

 千玄室は、こんなことも言う。

「ちゃぶ台を家族みんなで囲み、ぜいたくではなくとも母親が作ったおかずを分け合って、その日にあった事柄などを子らが口々に話しながら頂いていた風景はどこかに消えてしまった」

 大正生まれで私の両親と同世代の千玄室はこれを何か古き良き家庭像だと思っているようだ。ちゃぶ台の登場は早くて明治中期、広がったのは昭和初期である。それまでは箱膳が普通であった。食器の入った箱の蓋を裏返すと各人の膳になる。通常は一汁一菜。食事が終わっても食器は洗わない。湯をかけて箸でさらって飲む。それを箱にしまって終わり。

 私と同年の知人は名古屋郊外の農村で育ったが、昭和四十年の高校卒業まで箱膳の食事だった。

 食事の時は「その日にあった事柄などを子らが口々に話し」たりしない。それはちゃぶ台や洋風のテーブルが出現してからの風習である。そもそも食事中は会話をしない。今でも禅寺ではそうだ。

 伝統も古典も分からない保守派は何を保守しようというのだろう。

以下ソース
https://www.news-postseven.com/archives/20200120_1528309.html

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