決闘と戦争がまだアナログであった時代、長きにわたって洗練されたメジャーな戦闘技術であったのが剣術だ。オルタナティブメディア「Ancient Origins」では戦いの歴史に燦然と輝く史上最高の7人の剣士を紹介している。

1.源義経:武士の真髄

「牛若丸」としても知られる源義経は武将一族の子息として幼い頃から孫子の『兵法』などを意欲的に学ぶ一方で、剣術修行にも励み急速に腕を上げた。

 若い時の武者修行の旅の道中、京都・五条大橋で出くわしたのが伝説の僧衆・弁慶であった。身の丈2メートルの容貌魁偉な弁慶は出会った武士にあたりかまわず決闘を挑み、この時点ですでに200人を斬り殺していたといわれていて、当然ながらこの時も義経に斬りかかった。

 義経は弁慶の薙刀(なぎなた)を華麗にかわして橋の欄干に飛び乗り、力まかせに大薙刀を振り回す弁慶を翻弄して戦意を喪失させてしまうのだった。完敗を認めた弁慶は義経に仕え、その右腕となって源氏の天下統一への戦いで活躍することになる。

 戦での功績が認められ大きく出世した義経だったが、後に兄・頼朝の反感を買って下野し、一説では自害したといわれているが、日本を離れて海外で生涯を送ったという説もあれば、彼こそが後のチンギスハン(ジンギスカン)であったのだという説もある。

2.フィオレ・ディ・リベリ:中世のフェンシングの達人

 14世紀後期のイタリアの有名剣士であり、現存する最も古いフェンシング指南書の1つ『Flower of Battle』の著者でもあるのがフィオレ・ディ・リベリである。中世ヨーロッパがこれまでに輩出した最高の剣士およびフェンシングマスターの1人として高く評価されている。

 西暦1350年頃にイタリアの小さな町で生まれたリベリは幼い頃から神聖ローマ帝国の多くのドイツ人やイタリア人の指導者の下でフェンシングを学び、すぐに頭角をあらわした。

 リベリは当時の最高のフェンシングマスターと戦った5回の決闘で特に有名となり、多くの王家にフェンシングの技術を教えた。

3.ドナルド・マクベイン: スコットランド最強剣士

 1664年にスコットランドのインバネスで生まれたといわれているドナルド・マクベインは、すぐに“キレる”という性格上の問題があったといわれ、馴染めなかった軍隊を離れ、自分の剣術を徹底的に磨き上げることに専念したのだった。

 片膝をつき、強力なアッパーカットで剣を上に突き上げる「イノシシ突き」などのパワースタイルの戦法でめきめきと頭角をあらわしたマクベインは、アイルランドに移りフェンシング道場を開き、4つのライバルの道場のマスターを打ち負かして評判を確かなものにした。その後も100回以上のデュエル(決闘)を行い一度も負けることはなかったといわれている。

4.ジョセフ・ジョゼフ・ブローニュ:決闘の紳士

 18世紀ヨーロッパで最高の剣闘士の1人として知られるブローニュは、カリブ海のグアドループ島の農園領主とアフリカ人労働者との間の非嫡出子として生まれ、幼い頃にフランスに送られて紳士教育を受けた。

 バイオリン演奏に習熟する一方、フェンシングにも熱をあげて有名なフェンシングの達人から訓練を受け、10代の頃にはすでに熟達した剣士になっていた。

  彼の出自について人種差別的な発言をした剣術マスターを完膚なきまでに打ちのめした後、ヨーロッパの王族が参加する多くの試合に出場し、すぐにヨーロッパで最も有名な剣闘士の1人になった。

 フランス革命の間には彼は共和国のために真っ黒な戦闘服の軍団を指揮し、その人気と技術に敬意を表して「セントジョージ軍団」と呼ばれた。

続く

以下ソース
https://tocana.jp/2023/01/post_246116_entry.html

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