マラリアは熱帯地域でよくみられる感染症であり、東南アジアなどのガイドブックでは旅行の際に気を付けるようにと書かれています。

しかしそんなマラリアですが、実はかつては日本でも蔓延していたことはあまり知られていません。

果たして昔の人々はどうやって日本からマラリアを撲滅したのでしょうか?

本記事では日本で起きたマラリアの蔓延について紹介しつつ、どうやってマラリアと戦ったのかを解説していきます。

マラリアは、ハマダラカが媒介するマラリア原虫による感染症で、発熱や悪寒、頭痛、筋肉痛などの症状を引き起こします。

未治療の場合、脳マラリアなどの合併症が生じ、深刻な症状を引き起こすのです。

現在でも年間2億人が感染し、うち44.5万人が死亡しており、HIVや結核と共に世界三大感染症と言われています。

このマラリアは熱帯地域に多くみられる病気ですが、日本のような温帯地域でも広がりやすいタイプがあり、昔の日本では多くのマラリア患者が発生していました。

古い時代の資料にはしばしば「瘧(おこり)」や「瘧病(おこりやまい)」と呼ばれる疫病が登場し、これがマラリアであると考えられています。

かの有名な『源氏物語』でも主人公の光源氏がマラリアからの回復を祈る呪術的儀式を行うために寺を訪れるエピソードがあり、当時の社会でマラリアがありふれたものになっていたことが窺えます。

明治時代になって近代化が進んでいってもマラリアの感染が減ることは無く、主に琵琶湖周辺の地域を中心に多く見られました。

特に福井県では大正時代には毎年9,000 ? 22,000人以上の患者が発生し、1930年代でも5,000から9,000人の患者が報告されていたのです。

また本州だけでなく北海道でも明治時代以降、マラリアが流行し、北海道開拓にも支障をきたしていました。

そのような本州以北でも流行していたマラリアですが、特に沖縄の八重山諸島では非常に蔓延しており、マラリアの蔓延によって廃村となる集落さえありました。

また琉球王国時代(1429年〜1879年)は八重山諸島内に新しい集落を開拓するために地元住民の一部を強制的に移住させたりしていましたが、これらの移住先はほぼマラリアが多く発生している地域であり、多くの犠牲者を出していたのです。

また西表島は農業に適しているということもあり、琉球王国時代から近隣の島の住民の中には船で通って耕作を行っているものもいました。

しかし西表島ではマラリアが蔓延しているということもあり、近隣の島の住民はマラリアの発生していない由布島に仮の拠点を置いていたのです。

そのようなこともあって、八重山諸島を近代化する際にはマラリアの予防は喫緊の課題となり、1921年に八重山諸島にマラリア予防班事務所が設立されたのです。

その中でも特にマラリアのひどかった祖納(そない)集落ではマラリア予防対策が集落事業として展開されました。

森林伐採や清掃などの環境整備が行われ、マラリアの減少に取り組んだのです。

住民全体が協力し、事前に説明会を開いて作業に着手しました。

またマラリアの原因である蚊の住処となっていた排水溝や水田埋め立てなどの作業も行われました。

さらに簡易水道の設置も県当局との交渉を経て実現し、1939年には第1号の簡易水道が完成したのです。

祖納集落におけるマラリア予防対策は、集落事業を会合で決定し、全村が協力して実施されました。

祖納住民の高い教育水準もその背景にあり、西表校でのマラリア予防講習会も積極的に行われたのです。

というのも大正時代の西表島にてまともに機能している小学校は祖納集落にしかなく、それゆえ祖納出身者は小学校を卒業後に村の役人などといった指導的な立場に就いていたのです。

なお当時の小学校は義務教育であったものの、学校が全国的に整備されていたわけではなく、西表島のようなところでは初等教育さえ受けていない人もそれなりにいました。

また小学校で読み書きを習っていたことから祖納集落の識字率は高く、それゆえ保健医療に対する情報を効果的に伝えることができました。

また、祖納集落の結束の強さも特筆され、マラリア対策に取り組む意欲が高かったのです。

これは神事や祭りを通じた集落の結束によるものであり、集落内での決定には逆らえないという厳しい一面もありました。

祖納の予防対策は早い時期から効果的であり、蚊帳使用率も100%に達していました。

これにより祖納集落でのマラリア患者は他の集落と比べても大きく少なかったのです。

続く

以下ソース
https://nazology.net/archives/147178