顔1要求する子はおじさんと同席する我慢の対価が欲しいと考えてる節がある。
これは企業からの給与を仕事という辛い体験の我慢料金と考える思考と同じ?
なぜ全ての稼ぎは付加価値提供の対価と考えられないのかなあ?不思議