てすと
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
>>606
[Windows端末の2chAPIproxy]⇄[モバイルルーター]←[Android端末の専ブラ] http://web.archive.org/web/20121214033151/http://www.geocities.jp/burke_revival/
「国家」は「人権」など無くても成立する(法の支配の下に“国民の権利”や“公民権”が擁護されればよい)。
が、逆に「人権」はそれを保護する主体である「国家=政治社会」がなければ、全くの“無力”であり、人間の知性がつくり出す“絵空事”にすぎない。
つまり、国家Aにおける「人権」とは「国民Aの権利」であり、国家Bにおける「人権」とは「国民Bの権利」であり、国家Cにおける・・・・である。近代政治社会において、自然状態の「人間の権利」=「人権」など何の効力も持たない妄想である。
従って、国家の基本法たる憲法にとって「人権」は反・憲法原理であることは明らかであろう。正しい憲法原理は、その国家固有の歴史・伝統・慣習など(=“法”の支配)を基盤とて成立する“国民の権利”である。
満州国が崩壊し、また邦人保護権をもつ「在外の陸軍部隊」となった関東軍がシベリアに拉致されたあとに満州の邦人155万人がロシア軍にどんなに「われわれには人権がある、人権を保障せよ!」と叫ぼうと、「人権」は保障されないのは明白であろう。
自由とか生命は、“国家”ならびにその“国家”において、成長した法秩序の二つがあって保障される。“国家(ナショナル)”である以上それは、「国民の権利」である。
つまり、自由は「国民の権利」としてのみ要求しうるものであり、「人権」は自由をわずかも保証しない。
https://web.archive.org/web/20121214033151/http://www.geocities.jp/burke_revival/
ハイエクは、人間が合理的な推論によって改革や革新をしてより有効なものにしようとする思考を、デカルト的な設計主義と名付け、それが社会に対して自己破壊の力をもつことを警告した。
伝統・慣習・歴史(時間の経過)によって発展し機能している多くの文明的「制度」は、理性(人間の知力)には限界があるため、数学的に証明されることはない。
ところが、明示的(数学的)に説明(証明)のつかないものをすべて捨て去る(例えば、神の存在は理性では証明できない。故に神は存在しない。私は無神論である。)デカルト哲学においては、このような文明的「制度」は当然に排除され、棄てられる。
この結果、社会は自然に発展してきた文明的「制度」を失って、機能不全におちいていく。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています