マリア放蕩記
相手の承諾なしで勝手にコピペしてんのか?て聞いてるんだけど >>257
人はなぜブランドにこだわるのだろう
面白いテーマ >>260
金持ちが金を持っても心が満たされない話
上には上がいるのでいつもその人たちと自分を比べてしまいキリがないからと聞いたことがある
お金無くても満足できる人は、最初からその時点で満足なのだと >>264
自分探しはすでにある自分を否定するのと
良いこと言うなあ マリアのスタンスが今頃になって分かった
まず引用元のURLをここに貼ってから、その中身の一部を紹介してるわけね >>275
紅葉はまさに今が旬
単なる通勤や買い物も楽しくさせてくれる >>280
京都ではないけど、それとなくデザートを出されて、長居しすぎちゃったかなと思ったことはある >>302
地方もいいところたくさんあるんだけど、でもやはり若者は都会に出ていってしまうね
そして過疎化していくんだけど、不動産が買うのも借りるのも都会に比べて桁違いに安いのは良いかな >>342
洗濯機、掃除機、冷蔵庫、電話、テレビなどが発明されて一般家庭に普及され始めた頃が、生活スタイルも激変しだして一番エキサイティングな時代だったんだろうなと想像する
今の電化製品は機能も普及も十分行き渡っていて、あってもなくてもどうでもいいような付加機能で差別化を図ろうとしてる感じで新製品にあまり魅力を感じない >>349
たしかに、今はスターっていない気がする
AKBとか乃木坂とかジャニーズとか人気のグループとかはいるけど、
スターはいない気がする >>350
分かるとつまらなくなる
まだ地球が丸いかどうかもよく分からなかった頃、コロンブスが新大陸発見とかしてた時代はさぞかしロマンに溢れていたんじゃないかと思う >>353
子供の頃、あんなにワクワクして食べた駄菓子なのに、大人になるとまったく魅力を感じなくなってしまった
これ原料は何?着色料すげーなとか余計なことばかり気になってしまうし それを乗り越えて食うとノスタルジーでたまらなくなるぞ >>535
それもいいね
今日も休みだから、酒のツマミにできそうな駄菓子を買ってきてノスタルジーに浸ってみる日にしてみようかな
たしかドンキに売ってた気がする
よっちゃんイカみたいなんはツマミに合いそう ヤングドーナツを大人になってから気の迷いで食ったら
カッサカサでマズくて思いっきりノスタルジーで
それ以来クセになってキャンプ行く時の買い出しで最後にカゴに入れてしまうw >>538
カッサカサでマズくても、ノスタルジーが上回って買ってしまうんだね
味って、そういう思い出なども詰まった上での味なんだろうね
そうえばサクマ式ドロップスが生産終了するらしいね
普段買ってたわけではないけど、なんだか寂しい まだサクマドロップスがあるぞ
佐久間製菓(サクマ式ドロップス)が廃業でサクマ製菓(サクマドロップス)は存続中
子供のころ食ってたのはサクマ製菓の方だったがな
不人気のハッカ味が好きだったw >>493
物理の話なんだろうけど、哲学の話みたい
やっと追いついた!
面白かった >>540
別会社で存続するものがあるんだね
ハッカね!
ハッカの良さが分かるようになると少し大人になった気がした少年時代w 金や物に囚われ 自分に執着する
そして周りとの繋がりや愛に感謝しなくなる 必要なものは既に自然界から与えられている
それ以上のものは人間の欲
結局人間て幾ら贅沢しようとしても食べられる量もお金を使える量も限られている
幾ら家を持ってても住める家は1軒だけ
必要最低限の暮らしで生きるべき 金や物に心を囚われてると中身が無い空虚で幻想的な世界になる
必要なものは既に足りてる
自分は常に少欲知足で生きていきたい
今あるもの今ある現状に感謝してそれ以上のものは欲しがらない 金や物は必要なものだけど膨らみ過ぎると必要過多で必要過剰なものになる
得られると一時の満足感や幸福感は得られるかもしれないけど
ずっと続くわけじゃない
消費したり得たりすると途端に空虚な気持ちになったり飽きたりする それより(金や物より)も遥かに大事なのは
家族や他者との繋がり 愛や思いやり
そういう目に見えないものに感謝出来た時
既に自分には沢山の幸せがあることに気付けるし
既に自分は満ち足りてることに気付ける 減少する年収、不安定な生活に不安を感じるビジネスマンが増えていることと思います。わたしたちは、なぜ、こんなに、お金が少なくなることに心を惑わされてしまうのでしょうか。
お金の価値と働きがい、仕事のやりがいについて、どんなふうに考えたらよいのでしょうか。お金の価値を感じるのも、仕事のやりがいを感じるのも、「心=ココロ」です。
心という存在は、「ココロ、コロコロ」のように実体のないもので、科学的に「心とはこれである」と解明されているものではありません。
「勝った・負けた」「得した・損した」といって一喜一憂するのも心、そのあらわれ方は百人百様です。
同じような環境にあっても満ち足りた気分になる人もいれば、おおいに不満を覚える人もいます。お城のような邸宅で暮らし、毎日ご馳走三昧でも幸福感がやってこない人もいれば、極貧生活の中にも楽しみを見出し、
麦飯と味噌汁だけの質素な食事をしみじみ味わえる人もいます。
そう考えると、豊かな不満社会に生きる現代の日本人は、環境にかかわらず概して不満傾向にあるといえるのではないでしょうか それでは、職場でも家庭でも、移ろいゆくさまざまな場面で、環境やモノに左右されず、豊かな心を保ち、充実した生をまっとうするためには、わたしたちはどのように考え、日々を送っていけばよいのでしょうか。
それなりにいい家に住み、いい車に乗り、いい服を着てブランド品をたくさん持っていても、不満は不満、そして不安は不安。
心がそう感じる理由を解き明かしていく前に、ぜひとも耳を傾けていただきたい言葉があります。
「道は貧道より尊きはなし」 これは江戸中期の禅の中興の祖・白隠禅師の言葉で、意味は「たとえどんなに貧しくても、その日暮らしであろうとも、心だけは王侯貴族のような気持ちでありたい」。
つまり、物質的な貧しさと心の貧しさは共にあるわけではなく、たとえお金が十分になくても、心のあり方一つで働きがいを得られ豊かになれるということです。
「道は貧道より」の言葉から思い浮かぶのが、私も尊敬する偉人の一人、あの良寛さんです。 「100石(俵)6人泣き暮らし」は武士の貧乏暮らしをあらわす言葉で100石の禄から藩に納める分を差し引けば、残りはわずか。家族と使用人がぎりぎり暮らせる程度しか手元に残らなかったそうです。
しかし町人や商人のほうが経済的な余裕があったにもかかわらず、武士たちはプライドと高い精神性を保っていました。
藤沢周平原作の映画『たそがれ清兵衛』にも、こうした幕末の下級武士の世界が描かれています。
主人公の清兵衛は、家族を支えるために城中の仕事が終われば“たそがれどき”にさっさと帰宅し、夜は虫かご作りの内職に励み、庭に畑を作って野菜を育て、
いつもほころびた着物を着ていました。ただし、心は決して貧しくありません。
畑の野菜や草花が日々育っていくのを見ては楽しみ、娘が成長していくのを楽しみ、貧しいながらも日々の生活を楽しんでいました お金やモノに流されずいつも清々しく豊かな心を持ち続けるということは、できそうでなかなかできないことです。なぜなら、わたしたち人間は「二元論的思考」をする生き物だからです。
二元論とはモノと心、善と悪、金持ちと貧乏、好きと嫌い、失敗と成功、エリートと落ちこぼれ、勝ち組と負け組というように対立する概念で物事を捉えることで、白と黒の間のグレーゾーンはありません。
この二元論的思考が根底にあると、私たちは凝り固まった小さなモノサシや自分の価値観に振り回されることになります。
「富と貧」「勝ちと負け」を区別して比べる心です。両者を対極において見るために「勝ち」になれない自分が苦しくなってしまうのです。 元来、禅の世界では二元対立を嫌い、排していきます。そして絶対の主体性を目指します。
ここで強調しておきたいのは、皆さんがとらわれている考え方、判断の仕方などは、実はすべてあなたの周りが勝手に創り上げた既成概念、いわば「雲」のようなものにすぎないということです。
この既成概念による小さなモノサシを破壊しないかぎり、心の改革はなされません。
「モノ」や「お金」の量にかかわらず「なんだか満たされない」のは、物質社会がつくり上げた既成概念に縛られすぎているために、
本来得ている働きがいや生きがいに気づけなくなっているからです メッシ シャビ イニエスタ ブスケツが織りなすアメーバのような三角形
後世に語り継がれるべき ウクライナ戦争とかコロナとか暗い話が多い中で、こういうスポーツで世界中が平和的に夢中になれるって素晴らしいことだと思うんだけど、
オリンピックも今回のワールドカップも闇の部分が大きいのがちょっとね
6000人くらい亡くなったらしいし