被害者が事件発生を連絡したところ、たまたま最初の通報者だった。
以来、警察からもメディアからも“犯人”のレッテルを貼られ、孤独で苦しい闘いが続く。
心の支えとなったのは――。
梅雨の合い間の蒸し暑い日だった。
1994年6月27日、午後10時40分。松本城に程近い長野県松本市の住宅街で、異変が起きた。
河野義行さんの妻・澄子さんが倒れた。犬が痙攣を起こし泡をふいていた。
河野さん自身も目の前が真っ暗に感じられ、地鳴りのような幻聴が聞こえた。
「毒ガスが発生しているので、注意してください」
警察や消防の怒鳴るような声が響く。周辺の住民が次々と救急車で運ばれた。
計8人が亡くなり、重軽傷者は数百人。
一時心臓が止まっていた澄子さんは病院で息を吹き返し、同じ病院に入院した河野さんは安堵した。
ところが翌日、予想だにしない展開が待ち受けていた。
河野さんの自宅に対し被疑者不詳のまま、殺人罪で強制捜索令状が出されたのだ。
それが増幅され、河野さんの殺人者説が一気に浮上したのだ。
<薬品の調合を間違えて白い煙がパーッと上がった、と警察の事情聴取で(河野さんと澄子さんが)話した>
メディアではなぜか、事実とは異なるこんな報道が出た。
だが当時、澄子さんは重篤で、事情聴取に応じられる状態にはなかった。
被害者だった河野さん夫妻は、“犯人”とされてしまったのである。
1か月後に退院するとすぐ、重要参考人として警察でポリグラフ(うそ発見器)にかけられ、自白の強要も行われた。
執拗な取調べが続く中、澄子さんの意識は戻らず、周囲からは白眼視され、誹謗中傷の手紙が大量に届く。
河野さんにとって、精神的に辛い状況が続いていた。
疑いが晴れたのは半年以上が経過した1995年だった。
3月、オウム真理教に対する強制捜査が行われ、松本サリン事件が同教団の犯行であることが明らかとなったのだ。
オウム真理教は松本市を拠点の1つにする計画を進めていたが、土地取得などで裁判になるなどトラブル勃発。
松本市の裁判官官舎を標的に、神経ガスであるサリンを噴霧したのだった。
未曾有のテロ事件である松本サリン事件は、被害者である河野さんが一転、容疑者扱いされた。
警察の杜撰な捜査とそれに乗ったメディア報道が、大きな二次被害を生んでしまった。
河野さんの疑惑は晴れても、妻・澄子さんの意識は戻らない。
それでも病院に澄子さんを見舞い、話しかけてきた。自分の声が必ず届いていると信じて。
「病院に運ばれた当初は、まったくの無表情でした。
でも意識は戻らなくても、次第に変化が現れ、表情が豊かになってきたんです。それが嬉しく、私の生きる希望となりました。
とても厳しい病状ではありますが、命が続く限り生きていてほしいんです」
事件から10年後、まだ意識が戻らない澄子さんのベッド脇で、河野さんにこう聞いたことがあった。
当時、脳の萎縮が進んでいたという。
その後、2008年8月、事件以来14年間、一度も意識が回復しないまま、澄子さんは帰らぬ人となった。60歳だった。
その葬儀直前にも河野さんにお会いし、こんな話をしてくれた。
「澄子は、チューブ1本で14年間を生き抜いてきました。それは大変なことです。
意識がなくても、生きていてくれるだけで私には大きな意味がありました。支えられました。
話すことはできませんでしたが、心と心で会話をしていたようなものです」
続く
以下ソース
https://nikkan-spa.jp/1274838
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