【歴史】偉人たちの処性術 江戸の華“火事”のおかげでできた『高級遊女との駆け落ち』[07/28] [無断転載禁止]©bbspink.com
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001逢いみての… ★2017/07/28(金) 01:45:32.77ID:CAP_USER
早見俊の『偉人たちの処性術』

今日でも火事で焼け太りということを耳にします。
火事と喧嘩は江戸の華と言われた江戸はまさしく焼け太りが横行しました。その代表が吉原です。
明暦の大火(1657)で現在の人形町辺りにあった元吉原が焼失してから、江戸時代を通じて吉原は二十三回も火事に遭いました。
建物が密集しているとあって、その内の十八回が全焼です。

火事で妓楼が失われれば営業できないではないか、何が焼け太りだと思われるかもしれませんが、吉原の遊女、妓楼の主たちは逞しくも再建されるまでの間、浅草や両国、深川の料理屋や商家を借りて客を取っていたのです。
いわば、仮営業ですが、この仮営業が好評を博しました。仮営業ですから、吉原ならではの仕来りが簡略化され、吉原で登楼するよりも安く遊べたからです。
その上、浅草、両国、深川の盛り場ですから、気軽に足を運べるとあって、連日大勢の男たちが押し寄せました。
お蔭で、妓楼は大層儲かり、焼け太りとなったのでした。

吉原の仮営業は妓楼の焼け太りばかりか、大評判となった心中事件をもたらしもしました。
心中したのは名門旗本藤枝外記と高級遊女綾衣です。

藤枝家は三代将軍徳川家光の側室お夏の実家でした。お夏は家光との間に男子をもうけました。甲府宰相徳川綱重です。
綱重は将軍にはなれませんでしたが、綱重の子が六代将軍家宣となりました。
お蔭で藤枝家は四千五百石の大身となり、外記の代に至ったのです。

そんな名門旗本藤枝外記は妻子がいながら綾衣と恋仲になりました。外記の不行跡は幕府に知られ、外記は甲府勤番に左遷されます。
会えなくなることを悲しんだ二人は駆け落ちをして江戸近郊の千束村の農家で心中を遂げました。
天明五年(1785)の出来事でした。

普段の吉原であれば、大門に四郎兵衛と呼ばれる見張り番が三交代で一日中詰めていましたから、遊女が郭の外に出ることは困難でした。
仮営業ゆえ、二人は駆け落ちできたのです。

藤枝家は断絶処分となりました。
名門旗本と遊女の心中は一大醜聞となり、明治に至って「半七捕物帳」で有名な岡本綺堂が、「簑輪心中」という歌舞伎に仕立てました。

以下ソース
http://www.dansen-web.com/article/detail/1636045/

★関連板★
■えっちな話題なら”ピンクニュース”
http://mercury.bbspink.com/hnews/
■新作AV情報なら”AV情報+”
http://mercury.bbspink.com/avplus/
0002夜更かしなピンクさん2017/07/28(金) 04:24:50.83ID:I+LxzK4o
ピンクちゃんねるの歴史物シリーズはなかなか面白い
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

ニューススポーツなんでも実況