【話題】奇習! 老女が明かした教科書に記されない「恥辱の歴史」 終戦直前に将校が“身体検査”と称して女学生を…―神奈川[08/26] [無断転載禁止]©bbspink.com
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0001逢いみての… ★2018/08/26(日) 00:46:20.09ID:CAP_USER
戸叶和男『日本奇習紀行』

1982年に公開された小原宏裕監督のロマンポルノ映画『白薔薇学園 そして全員犯された』では、研修旅行に向かう女生徒や女教師が、バスジャック犯や運転手に犯されてしまう様子が実に生々しく描かれている。また、1979年に梅川昭美が引き起こした『三菱銀行人質事件』などの事例でもわかるように、こうした事件を引き起こす犯人の中には、日頃、自身が抱えている鬱屈した想いの表れなのか、己の支配欲求を満たさんがために、また、逃亡を阻止するという合理的な目的などから、人質を裸にしたり、一方的に性的な暴行を加えたり、さらには『ソドムの市』を彷彿とさせる“酒池肉林絵図”を、自身で引き起こしたりと、その支配対象に対して性的な行為を含む虐待を強要するケースが珍しくない。実は今回ご紹介する事例は、まさにそうした内容を彷彿とさせる話だ。

「あれからもう70年以上経ちますか……もうそんなになりますかね。けれどもね、あなた。私は何十年経っても、それこそ、これから先、自分が死ぬ瞬間まで、“あの日のこと”は忘れないと思いますよ」

自身がかつて体験したという、その“忌まわしき出来事”についてそう語りはじめたのは、現在、神奈川県某所にある特別養護老人ホームでその余生を過ごしている田中絹江さん(仮名・87)。今を遡ること73年前の1945(昭和20)年、当時、軍需工場での労働に就いていたという田中さんは、突然現れた一人の将校によって、思わぬ恥辱を味わうことになったのだという。

「当時、私はね、同級生たちと一緒に、家の近くにあった工場で、兵隊さんが使う武器をね、一生懸命になってこさえてたんです。けれどもね、終戦の年を迎える頃には、材料がね、ほとんどなくなってしまって、作業をしようにも、あらかじめ決められていた時間よりも早く、作業が終わるなんてことも珍しくなかったんです。だから、当時、私たちは“このまま楽な感じが続くといいね”だなんて、ひそひそと話し合っていたものでした」

田中さんが証言するように、終戦目前の日本は、極度の物資欠乏状態が続いており、学徒勤労動員によってせっかく集められた女生徒たちも、ろくな作業もできぬ状態が続いていたのだという。しかし田中さんら女生徒がそんな毎日を送っていたある日、思わぬ事態が発生する。その工場を訪れた一人の将校が、彼女たちの“安息”を強引に奪い去ったのである。

「その人はね、どうでしょう、詳しいことはわかりませんけれども、まだ三十路前だったと思うのですが、いきなり現れたかと思ったら、全員に対して、“気迫が足りない”と説教したんです。それで、工場長はおろか、引率で来ていた先生にまで、私たちの前で暴力をふるって。それを見て、私たちは身がすくむ思いをしたのですけども、本当の問題はそれからでした」

終戦を目前に控えた昭和20年のとある春の日、田中さんらが働く工場を訪れたその将校は、彼女たちの保護者でもあり、上役でもある大人たちに“制裁”を与えることで自らの武威を示すと、そこから実際に終戦を迎えるまでの数カ月間、まさに“王様”であるかのような立ち居振る舞いを続けたのだという。

「最初に(その将校から)呼び出されたのは、同じ部屋で寝泊りするSさんという子だったんですけどもね、彼女はその日の晩から、口も心も閉ざしてしまって……そういう子が一人、また一人と増えていくうちに、私もだんだん不安になってきたのですが、そうこうしているうちに、いよいよ、私の番になってしまって……」

続く

以下ソース
http://tocana.jp/2018/08/post_17802_entry.html

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0002逢いみての… ★2018/08/26(日) 00:46:48.99ID:CAP_USER
“その日”、工場の敷地内にあったという離れた寄宿舎に呼び出されたという田中さんは、その将校から、いくつか簡単な質問をされた後で、いきなり“身体検査をする”と言われ、着衣を脱ぎ捨てて裸になることを強要されたという。そして、その後はわけもわからぬままに、浅黒く日焼けした彼の手によって、自身の未成熟な肉体をまさぐられたのだというが、今回の取材において、我々がその具体的な内容について踏み込むと、彼女はしばしの沈黙の後で涙を流しながら押し黙り、結局、詳しい内容について語ることはなかった。しかし、こうした田中さんの様子を見ていると、その内容はまさに“推して知るべし”といったところと言えるかもしれない。

「どっちにしたってね、私は“あの日”に体験したこと、今までただの1度たりとも、夫や子供にしゃべったことはないんです。もちろん、あなたにもこれ以上、詳しくお話しすつもりもありません。けどね、毎年8月になると、テレビや何かで終戦関連の話題をやるでしょう? ああいうのを見るたびにね、私は思うんです。“そういう話だけじゃないんですよ”って」

無論、こうした会話が延々と続いてしまったがゆえに、当時、田中さんが見舞われた“被害”について、本稿で述べたことは、多分に筆者の想像が含まれていることも事実であるし、こうした一人一人の体験が、歴史の教科書に記されることは、ここから先もないだろう。現代の我々は、こうした過去の忌まわしい歴史の上に成り立つ美しい国と、そこから先の世にも続くであろう恒久の平和とやらに、いくばくかの光明を見出すより、ほかならないのかもしれない。

終わり
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