サディズムの語源となったサド侯爵には倒錯的な性癖があり、27才の時にその性癖が爆発。女性を全裸にしてムチで打ったり、傷口に軟膏を塗り、女性が苦しみ悶え、悲鳴を上げる姿に興奮。その後もサドの倒錯プレイはエスカレートするばかり…
サディズムの語源となった元祖SMプレイヤー、サド侯爵は1740年、名門貴族の子としてパリに生まれました。若かりし頃は軍人を志し、騎兵連隊の大佐となって七年戦争に従軍し、帰還後、二十三歳で裕福な司法官の娘と結婚します。
一見して順風な生活を送っていたのですが、彼には倒錯的な性癖がありました。いつ、どうして身に着いたのかは不明ですが、その性癖を爆発させた事件を二十七歳の時に起こします。
物乞いの女性を自宅に監禁し、全裸にしてソファにうつ伏せに寝かせ、ムチで打ったのです。更に傷口に軟膏を塗り、女性が苦しみ悶え、悲鳴を上げる姿に興奮しました。
この一件は発覚し、サドは逮捕され、新聞にも大々的に書き立てられました。投獄されたのですが、反省するどころか出獄後には乱痴気パーティを繰り広げる生活を送ります。そしてまたも倒錯的な事件を引き起こします。
今度はより大がかりな事件(サドにとってはプレイ)でした。三十二歳、マルセイユでのことです。サドは街角で娼婦に声をかけ、娼婦仲間数人を集めてもらい、娼館でプレイに及びました。
娼婦たちを全裸にし、ムチで打ちます。当然ながらそれだけでは満足せず、催淫薬の入った菓子を食べさせ、アナルセックスに及びました。欲望を達したサドは意気揚々とパリに帰って行ったのですが、娼婦たちに訴えられて再び逮捕されます。
催淫薬入り菓子を食べさせたことが毒殺未遂と判断され、アナルセックスを糾弾されて死刑判決を受けました。不幸中の幸いで死刑執行は行われず、投獄されました。
1784年にはフランス革命で有名なバスティーユ牢獄に収監されます。牢獄生活中は精力的に執筆活動を行いました。彼の倒錯的性癖の集大成である、「ソドムの百二十日あるいは淫蕩学校」をはじめとする作品が書かれます。
数々の作品は猥褻、残酷描写が多いため長らく禁書扱いを受けましたが、二十世紀に入って再評価され、サドの名はサディズムと共に有名になりました。フランス革命が起き、バスティーユ牢獄を出獄しましたが、作品の猥褻さをナポレオンに咎められて投獄、その後精神病院に移されて七十四歳で没しました。
以下ソース
http://www.dansen-web.com/article/detail/5655058/
★関連板★
■えっちな話題なら”ピンクニュース”
http://mercury.bbspink.com/hnews/
■新作AV情報なら”AV情報+”
http://mercury.bbspink.com/avplus/