【歴史】東西すごい人セックス伝 娘を平城天皇へ嫁がせた藤原薬子 女官として宮中に入り淫乱ぶり発揮!娘婿と密通し寝取る[07/02] [無断転載禁止]©bbspink.com
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0001逢いみての… ★2019/07/02(火) 02:06:49.62ID:CAP_USER
早見俊『東西すごい人 セックス伝』

歴史作家・早見俊氏が、洋の東西を問わず歴史上の人物たちの性に関するエピソードをいろいろと紹介していくこのコラム。歴史に興味がある人はもちろん、そうじゃない人も楽しめること間違いナシですよ。

今回は日本の高貴な淫乱妻について記します。彼女は娘の夫と不倫をしていました。いわゆる、「親子丼プレイ」をやっていたのです。その高貴な女性とは藤原薬子(くすこ)、中学校の歴史の授業で習った、「藤原薬子の変」の首謀者です。

藤原薬子は奈良時代末期に活躍した藤原種継の娘として生まれました。父・種継は桓武天皇の信頼厚い側近でしたが、平城京から長岡京に遷都した際、遷都反対派によって暗殺されました。父の死の悲しみを乗り越え、薬子は同じ藤原一族の中納言藤原縄主(ただぬし)と結婚、三男二女をもうけます。

平穏な夫婦生活を送っていた薬子でしたが、大きな転機を迎えます。桓武天皇が皇太子安殿親王(あてのみこ)の妃に薬子の娘を迎えたのです。親王と娘は十代、ひょっとしたら娘の方は十歳に満たなかったかもしれません。妃となった娘が幼かったため、薬子が女官として宮中に入ったのです。

薬子と安殿親王はいつしか男女の仲になりました。親王は娘とも交わっていましたから、「親子丼」の関係となったのです。薬子が誘惑したのか親王が気に入ったのかはわかりませんが、三男二女を産んだ薬子は三十代であったと推定され、四十を超えていたという説もあります。年齢差にもかかわらず、薬子は親王から寵愛されたのでした。

二人の仲は宮中に知れ渡り、桓武天皇の耳にも入りました。桓武天皇は激怒、薬子は追放されます。しかし、桓武天皇が崩御、親王が平城天皇として即位すると薬子は呼び戻されました。おまけに、夫・縄主は大宰府に左遷です。平城天皇が熟女好きであったのか薬子がよほどの美魔女であったのか、それとも薬子という名からして凄い媚薬を使っていたのかもしれません。それにしても夫と娘は不幸でしたね。

その後、天皇は病で退位しました。薬子は必死で看病し、その甲斐あって病は平癒。二人は天皇への復位を計画しますが、嵯峨天皇に知られ兵を差し向けられました。平城上皇は出家、薬子は毒を飲んで自害したのです。

以下ソース
http://dansen-web.com/?p=755

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0002夜更かしなピンクさん2019/07/02(火) 02:23:17.60ID:ri3J1sJp
マサコとアイコ
日本の・・・
0005夜更かしなピンクさん2019/07/03(水) 00:36:58.51ID:wBKctvzg
続日本紀によると父の藤原種継が737年(天平9、公卿補任では天平13)生まれで、
上に仲成という兄がおり、夫の縄主が760年(天平宝字4)生まれで、種継が暗殺さ
れ早良親王に代わって安殿親王が立太子した785年(延暦4)の時点で既に三男二女を
産んでいたとすれば、薬子が生まれたのは758〜762年と思われ、この時はまだ30歳
には達していないと考えられる。安殿親王こと平城天皇は774年(宝亀5)生まれで、
彼が父桓武天皇の皇太子だった思春期〜20歳過ぎにかけては薬子は30前半の魅力あふ
れる女性だったに違いない。平城天皇が即位した時にはさすがにばあさんだが。桓武
天皇は安殿親王を皇太子にしたものの、788年には妃の藤原旅子(淳和天皇の母)が、
789年には天皇の母の高野新笠が、790年には皇后で安殿親王の母の藤原乙牟漏が相次いで
亡くなり、当時の疫病や天災も含め、これらはみな藤原種継暗殺事件で無罪を主張して
食事も摂らずに餓死した早良親王の祟りだと天皇は考えた。高野新笠は桓武天皇より前に
733年に能登女王を産んでいるから当然いつ亡くなってもおかしくない年齢であり、早良
親王の母でもあるから実の母を祟る理由なんて早良親王にはないと思うが…。安殿親王も
きっと心細かったのではないかと思う。薬子はこういう早良親王に祟り殺されるか分から
ない状況に置かれた親王を唯一母親のように支えることができた女性だったんだろうな。
0006夜更かしなピンクさん2019/07/03(水) 18:52:26.52ID:wBKctvzg
薬子の誕生年、結婚の時期、娘が安殿親王(後の平城天皇)の後宮に
入った時期がはっきりしていない。ここでは、薬子が父の従弟に当た
る中納言藤原縄主(760〜817)と結婚したのが父の死後のことであり、
薬子の娘が安殿親王の妃になったのが798年のこととして話を進める。

これより前に安殿親王は薬子と同じ藤原式家の藤原帯子(たらしこ・おびこ)
を妃としていたが794年に彼女は亡くなった。帯子は桓武天皇の妃藤原旅子
(759〜788)の同母妹で、家系図上は薬子の父の従妹に当たるが、帯子の父
藤原百川(ももかわ)(732〜779)は甥の種継とは5歳しか年が違わず、百川が
48歳で亡くなったときの遺児たち(緒嗣、緒業)は安殿親王と同世代で従兄
の種継とはそれこそ40歳ほどの年齢差があった。帯子も百川の晩年の娘なの
だろう。つまり安殿親王は帯子、薬子、薬子の娘と家系図上三世代の女性と
肉体関係を持った疑いがある。
0007夜更かしなピンクさん2019/07/03(水) 18:54:40.49ID:wBKctvzg
(続き)
薬子の家系については、曽祖父の宇合、祖父の清成 は20歳チョイで長男が
生まれているから種継も20代で仲成や 薬子を儲けたはずだ。薬子の年齢は
夫の縄主とそう離れていない、 1、2歳年上かいくらか年下だろう(と仮定
してみる)。
仮に長女が皇太子の後宮に入った時期が早いとして(790年頃?)、17歳ぐら
いの思春期真っ盛りの皇太子が32歳ぐらいの美しい人妻の色香に迷うことが絶
対にないとは言えない。高校生ぐらいの男子が人妻と不倫関係になって筆おろ
ししてもらうなんてことは現代でもありうることだ。

しかし、 尊卑分脈では兄の仲成が764年生まれとされるから、薬子が2歳 ほど年
下で766年生まれとすると薬子と安殿親王とは10歳も離れていないことになる。
父種継の死の直後20歳で6歳年上の縄主と結婚し、翌年に長女が誕生、一年おき
に三男一女を産んだとすると30歳には子どもを産み終わるはずである。798年には
長女が 13歳になるので幼女を皇太子の妃に入れたというほどではないな。
0009夜更かしなピンクさん2019/07/12(金) 22:46:03.04ID:XF/M/Z5f
藤原種継というと種馬みたいな名前だし
藤原縄主というとロープを使った変態プレイみたいだし
藤原薬子というと薬(ヤク)やってますって感じ
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