ここら辺から凄く難しい話になっていきます。もしわからなければコメント欄で質問してください。

 愛というのは感情です。正確には、ある感情の瞬間的状態のことです。愛している、というのは、その感情に瞬間的に気づくことです。“愛している”ことに気がつき、愛していると言葉にするのです。

 愛という言葉で言い表されている感情とは、相手の全てを、良いところも悪いところも、今だけではなく過去も、強さも弱さも、あるがままのその人を受け入れ、肯定している気持ちです。

 あなたがあなたでよかった。あなたが生まれてきてくれてよかった。あなたと知り合えて幸せです。といった全肯定の気持ちを相手に抱きます。それは時として、自分の社会的利益と相反することがありますが、相手があるがまま存在することを優先します。エゴが限りなく消滅していきます。

 それから、愛は、社会的立場や関係性に伴いセットで存在するものではありません。親子だから当たり前にあるわけでもないし、夫婦だから当然あるものでもなく、一言も直接話したことがないアイドルとファンの間にも存在し得るものです。

 母の愛を当たり前と決めつけると母も子も苦しみます。セックスをしたから愛し合えているんだと思い込むと、その思い込みに縛られ変化していく本当の気持ちに気づけなくなります。愛は制度や関係性といった社会的なものとは別のところにあるものです。

 相談文のタイトルに書かれていた“愛していく”というのは、愛の感情を持ち続けようと意志することです。常に変化する感情を持ち続けようと意志することは、一見矛盾するように聞こえます。ここが愛の難しいところであり、最大重要ポイントです。何度も繰り返し、ゆっくりと考え理解してください。

 愛するというのは、相手を自分のものにしたいと欲望する気持ち(同一化願望)と、相手が自分のものにはならないと区別する理性的判断(理性的区別)を同時に持つことです。

 前者だけになるのが恋と呼ばれるもので、相手を自分に取り込んだり、相手に取り込まれたいと思い、支配、被支配の関係性に陥ります。なので必ず破綻します。人間が誰かのものになることは一瞬はあるかもしれませんが、それを継続するのは不可能です。変化し続ける人間をコントロールし続けるのは、他者はもちろん、自分自身でも無理だからです。

 一方、後者だけになると、人と人が結ばれることはないんだと絶望するだけで、人を想い、つながれる奇跡を諦めてしまいます。人嫌いの人や、恋愛はもういいですと厭世的(えんせいてき)になっている人がいますが、そんな人たちも、自分の感情や欲望をコントロールしきれるわけではありません。ある日突然恋に落ちたり、はたと自分が誰かとつながっていたんだと感動する瞬間を迎えます。

 人と人が分かり合い“続ける”ことはないんですが、瞬間的に分かり合えたと思えることはあります。それはあまりに瞬間的だから幻のようで奇跡に感じられるのですが、確かにあると僕は感じています。

 同一化願望と理性的区別を同時に抱くには、熱い感情と強い意志の両立が必要であり、矛盾を矛盾のまま包括的に受け入れられるほどに人として成熟していなければなりません。この領域に達するには、ある程度の時間が必要だし、それなりの傷つきを経験しなければなりません。

 失恋した苦しみを知らない人は、愛することがわからないでしょう。依存的恋愛をして傷つけ合ったことがなければ、恋と愛の違いがわからないでしょう。愛されることばかりを求めている人は、まだ愛を知りません。

 愛とは瞬間的な感情の状態ですが、そこには継続していく意志が伴って完成するものです。感情と意志の両立、この視点でご自身の気持ちを見つめ直してみてください。

続く