会津若松
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会津プロパガンダ洗脳者だからすぐ長州だと思い込むんだねw 搾取の会津
会津藩の搾取ぶりを聞いていた
旧幕領の庄屋達は、それぞれの代官達に
これまで通り代官所による
統治の据え置きを望み、代官に会津藩による
支配に反対する建白書を出す事になる。
「会津藩は、奥州若松から
七、八十里も離れた魚沼の村々を
守ってくれるとは思えない。
越後が戦闘になったら小千谷・小出島
蒲原郡酒屋などの陣屋を焼き払って
会津口を固めるため撤兵するとのことだ。
その上、預地となれば調達金や
夫役を課せられ、私どもの村々は
立ち行かなくなるだろう」
(十日町市史通史編3)
以上がその建白の内容だが
いざ北越戦争が始まると
越後の領民が危惧した通り
越後の民衆は会津藩兵の
蛮行に苦しめられること事になるのである。 金を貪る会津
既に会津藩領になっている
小千谷陣屋領等から
会津藩は年貢の前払いをさせたり
石高に応じた御用金
(塩沢村からは五五〇両
六日町からは五〇〇両
浦佐村からは四八〇両など)を
負担させられたり、また新たな税
(織着用税として五両
脇差税として十両など)を設けた
(小千谷市史下・越後歴史考) 恫喝の会津
会津藩の支配に抵抗した庄屋達に対し
四月五日に会津藩小千谷陣屋から
出雲崎代官領に
「これ以上代官領の引渡しを拒むならば
軍勢を差し向ける」との恫喝がされた。
(津南町史通史編) 搾取と略奪の会津
越後に侵攻した会津藩兵の目的は
会津藩預けとなった旧幕領の接収と統治
そしてやがて訪れる新政府軍との対決に
備える事にあった。その為にも越後での
継戦能力を得る為に、越後の民衆の
支持を得るのが不可欠だった筈である。
しかし長年の京都守護職と鳥羽伏見の
敗戦による多大な出費で、半ば財政破綻した
会津藩は慢性的な戦費不足から
近視眼的に進駐した各地で
民衆から搾取・略奪を始めるのであった。
旧幕領を接収した会津藩兵が
まず行ったのは、戦費調達の為に
各村々への御用金の名の元での搾取だった。
この会津藩の御用金の割当は旧幕領の
各地に及び、旧水原代官領での
千唐仁村十八両、浮村一五七両、
野田新田十八両を始め
前述の小千谷陣屋領での割り当てや
後述する新潟町での御用金の取りたて等
枚挙にいとまがない。
(水原町編年史第一巻) 町民に捕まる会津
個人の会津藩士による略奪も多発した模様である。
初期においては新潟町で強盗を働いた
会津藩士数人が町民によって
捕らえられて処刑されたなどした。
(新潟市史通紙編3) 会津一味は強盗
越後の民衆に対する蛮行は
会津藩正規軍だけが行った訳ではなく
会津藩指揮下の衝鋒隊や水戸脱走軍に
よっても搾取や略奪は行われた。
「衝鋒隊七〇〇名や水戸藩の
脱走兵五七〇人余が相次いで
新潟町に入り込み、会津兵と入り乱れながら
各地で金品強奪・暴行を繰り広げた。
幕府の倒壊によって支配機能停止の
状態に陥った新潟奉行所はこうした
行動を停止出来なかったから
民衆の恐怖と憎悪は高まった。」
(新潟市史通史編3)
新政府よりの新発田藩や
与板藩の城下に乗り込み
軍資金を強要する等の蛮行を行った。 初めから信用がなく信用回復もできない会津
かくして会津藩兵による搾取・略奪によって
越後の民衆の心は会津藩から離れる事になる。
これを危惧した会津藩は家老梶原平馬を
新潟町に派遣して
「乱暴兵ヲ斬テ規律ヲ示シタ」と藩兵による
略奪を禁じたものの
「人心尚之ヲ厭ヘリ」のように
一度民衆から失った信頼を取り戻す事は
出来なかった。
(仙台戊辰史二巻)
また年貢の減免等も行ったが
その直後に人足を徴発したりしては
民衆の歓心を得る事は出来なかった。
(水原町編年史第一巻)
会津藩兵の搾取・略奪に苦しんだ
越後の民衆は、自分達を救ってくれる
存在を求めるようになる。
かくして越後の民衆が助けを求めたのが
会津藩兵と戦闘を繰り広げる新政府軍であり
かつて越後を統治した米沢藩上杉家だった。 笑われる嫌われ者の会津
会津藩の搾取略奪に苦しんでいた
越後の民衆もまた、かつての越後の
支配者である米沢藩兵を慕った。
「米沢藩兵は他人数だが馬は使わず
各自が荷物を背負ってきた。
米沢様は別段のものだと衆人が感服した。
それにひき比べ、会津は異形
はなはだしいゆえか、衆人不服で
負け戦の話をきくと婦女子までが喜んだ。」
(新津市史通史編下巻) 脅しの会津
会津藩は新潟奉行所に約束違反と抗議し
五千両もの大金を脅し取ったが
とにかく新潟町は会津藩の蛮行略奪から
解放されたのである「新潟港は外国貿易の
場となり、同盟軍が武器弾薬を
購入補給する基地となった。
乱れていた新潟町の治安は米沢藩によって回復した。
(新潟市史通史編3) 米沢の参謀から嫌われる会津
「時に越地の人民会津を悪みきらふ
甚深く恰も仇敵の如し。依之所在の
郷村御家を慕ふ心ありと雖会と
相合するのを以て味方する者なし。
是を以て大面在陣以来
村民を雇て篝火を焼せ死傷を
舁せ弾薬兵糧等を運はせんと欲すれども
家々の老若男女尽く逃散て一人も
応ずる者なし。其内衝鋒隊の
歩兵乱妨せしより、大面村民自ら
火を家々にかけて我が軍を追出し
賊へ応ぜんと企つる者有之由村役より
忠信出、早く会兵とはなれて
御一手にて御持なされずんば遖れ
御大事なるへしと云う」
(甘糟備後継成遺文)
これは六月一日の記述だが
「略奪を行なう会津藩兵と一緒に
行動するのなら、もはや米沢様には
協力出来ない」と民衆が米沢藩本陣を
訪れて訴えたのを受けて
今は民衆に慕われている米沢藩だが
会津と行動を共にするのを続ければ
民衆の信頼を失いかねないので会津とは
別行動を取るべきだと、米沢藩参謀の
任にある甘粕が考えていたのが判る。 庄内からも嫌われる会津
「当地へ出張以来会の将
佐藤折之進等表裏の所業甚しく
危険の場へは必我庄兵を差向け
己は後へ廻りて分捕等を掠むる
工夫を事とし一向義を重んじ
信を守るの志なき故、我士卒いづれも
不平を抱き元より越地出兵は
会を援くる為なるに
会人の作業如斯にては何ぞ尽力する
栓あらんと云て、自然と勇戦の心なく
数十日空く日を送れるなりと云。
(甘糟備後継成遺文)
甘粕は庄内藩兵を指揮する石原より
「会津を助ける為に越後に
出兵したきたのに、肝心の会津藩兵は
激戦地に庄内藩兵を送り
自分達(会津藩兵)は安全な後方で
民衆からの略奪に狂奔しているので
庄内藩兵の士気が下がっている」
と不満を述べられている。 米沢の総督もブチギレる会津
「会也庄也亡国ニ成リ候ヲ助ケ候事ニ候ヘ
ハ大兵モ差出可申処、両国共に三百ツゝ
其外ハ歩兵・水戸勢ニ候」
(米沢藩戊辰文書)
会津と庄内がこのままでは
新政府軍に滅ぼされるから助けて
欲しいと言うのなら大軍を差し出しもする
けれども、肝心の会津藩が衝鋒隊や
水戸脱走軍と言った非正規軍ばかりを
前線に送り、正規軍は三百程しか
前線に出兵させないようなら
話にならないと、米沢藩兵の総督である
千坂自身が、会津藩兵に反感を
抱いていると書かれた書状を送る時点で
会津藩と米沢藩の確執は限界に
達していたと思われる。 味方から嫌われまくりの会津
新潟奉行所の役人から
米沢藩に送られたと思われる書状にも
会津藩との別離を勧めるように書かれている。
(幕末維新と民衆社会 米沢藩からみた北越戊辰戦争 溝口敏麿) 外国人が見た悲惨な会津領民
英国公使館員の維新戦争見聞記
■民衆の貧困
残念ながら、会津藩政の苛酷さとその腐敗ぶりはどこでも一様に聞かれた。
今後十年二十年に返済するという契約で、会津の藩当局が
人民に強制した借款についての話がたくさんあった。
会津の国の貧しさは極端なものである。
家並は私が日本のどこで見たものよりもみすぼらしく
農民も身なりが悪く、小柄で、虚弱な種族であった。
この国で生産のされる米はみな年貢として収められねばならなかった。
戦争で破壊されるまえの若松とその近郊には
三万の戸数があり、そのうち二万戸には武士が住んでいて
あらゆるものがこの特権階級の生活を
維持するために充当されたり税金をかけられたりした。 外国人が見た残虐な会津
英国公使館員の維新戦争見聞記
会津兵は天皇の軍勢の戦闘員ばかりか
彼らの手に捕らえられた人夫たちまでも殺したといわれる。
この話の確証として、四日間も雪のなかに倒れていて
両足の機能を失った一人の人夫にあったことを、私はここに記しておきたい。
その人夫はもし会津兵につかまったならば
むごい死に目にあわされていただろうと私に語った。
そのほか、私は若松で世にも悲惨な光景を見た。
たくさんの死体が堀から引き上げられたが
彼らの両手は背中にうしろ手に縛られ
腹が深く切り裂かれていたのだ。
私は会津の徒党の残酷物語をいろいろと耳にした。
長岡で、彼らは天皇側の病院にいる負傷兵や医師たちを皆殺しにした、と聞いた。
会津兵が越後に退却して行く途中、彼らは女たちを強姦し、家々に盗みに入り
反抗する者をみな殺害したのである。 斗南強制連行は嘘だった
会津再興が認められて、新政府から「猪苗代か斗南」のどちらかと聞かれた時
偽金の不満から一揆が多発する会津近くにある猪苗代を避け
斗南の領地に移住せざるを得なかった。もし、猪苗代に領地を得ていたら
再興したばかりで戦う力を無くしている会津藩は
会津藩をまったく信用しなくなってしまった領民達の
一揆によって滅ぼされていた可能性がある。
新政府から会津藩再興が認められた時、新領地は斗南にしようと
言い出したのは山川大蔵だった。彼には偽金と戦争によって
荒らされた故郷の領民たちの怒りが良く解っていたのだろう。
補足するが、明治新政府が会津藩を流罪にすべく斗南の土地に
追いやったという事は無い。会津藩に示されたのは、斗南と会津に近い
猪苗代の二カ所である。会津藩が自ら斗南を選んで移住したのだ。 京でも会津は嫌われ者
禁門の変後の勝海舟の日記に依れば
『京地の風評、長を善とし、会、殊に悪説有り。(略)
又、薩・会の処置、暴に過ぎ、頗る正中を得ざるものあり。
薩は形勢を明察し、機会に乗ずる、天下第一といふべく、昨冬以来、長人是に仇すれども、私怨を忍び改めて咎めず、
彼が挙不正に到るに及んで、憤怨以てこれに答へんとす。尤も巧なりといふべし。
会藩は、上に人物なく、下士激烈無着落。その規模、殊に狭小。必ず労して天下の大害を生ぜん。また憐れむべし。』 長州人捕虜を虐殺して笑う残虐な会津
寺石正路「南国遺事」の同時期の記録に依れば、薩摩の寛大な処置に対し会津の捕虜の扱いは苛烈を極め
『長人の捕虜を頗る惨酷に扱ひ、爪を抜き、舌を切り、手を切り、なぶり殺しにした。
其中、或一人の頭に釘を打込む。容易に死せず。遂に十三本も打込むと死した。中々豪傑であった』
と会津の者から聞いたそうだ 会津は売国奴
会津プロイセン(ドイツ)との
提携を模索していたことが東京大史料編纂所の
箱石大准教授らの研究で明らかになった。
ドイツの文書館で確認した資料は
会津が北海道などの領地の譲渡を提案したが
宰相ビスマルクは戦争への中立
などを理由に断ったことを伝えていた。
ドイツの国立軍事文書館の資料で
10年ほど前にドイツ側の研究者が
存在を紹介したが詳細が不明だった。
箱石さんらの調査で確認されたのは
1868年の文書3点。いずれも、ボン大の
ペーター・パンツァー名誉教授に依頼し解読
日本語に翻訳した。 白河似北一山百文と差別されてたのは嘘
白河似北一山百文。
東北を蔑視する言葉。
河北新報の題号の由来でもある。
旧盛岡藩出身の平民宰相原敬は
自らを「一山」と号した。私も小学校の先生に
教えられた。東北を蔑む言葉だが
自らその表現を伝えるわが東北人には
中央中心の日本の見方に対する明確な
外交意識を想起させる言葉でもある。
この蔑称はどのように生まれたのか。
戊辰戦争で官軍が発したとも言われるが
実証されていない。今のところ『近事評論』の
記事「白河以北一山百文」(1878年8月23日)
を起源とみるのが最も信頼できる説だ。
■出典 河西英通『続・東北 異境と
原境のあいだ』中央公論新社(中公新書1889) 会津は放火魔
会津軍は周辺の地を焦土にしながら敗走を続けた。
慶応四年に始まった戊辰戦争は塩原温泉をも巻き込んだ。
旧幕府軍の形勢が不利になると、会津藩や凌霜隊などが塩原を焼き払おうとした。
この時焼き払われた民家は149戸といわれる。
妙雲寺も焼き払われるところだったが、住民の渡辺新五左衛門が会津に嘆願したため
妙雲寺の天井に描かれた菊の御紋に×印をつけることで焼失を免れた。
松楓楼松屋の歴史 嫌われる放火魔会津
会津藩士は「他国の農民は虫けら」と見ていたのである。
たとえば、慶応四年八月二十一日
会津直撃を目指して、三千人の征討軍が
殺到した母成峠戦いのことだ。
会津側は、ふもとから頂上まで三段の陣地を
構築し、頑強に抵抗した。
勝敗を決したのは、征討軍右翼隊である。
彼らは、道なき深山を迂回し
会津守備隊の側面を奇襲したのだ。
この奇襲部隊の道案内をしたのは
峠のふもとの石筵集落(郡山市熱海町石筵)の農民たちだった。
その前日、会津藩兵は
敵が隠れる所をなくすために
放火して集落を焼き払ってしまった。
家を焼かれた農民たちが、恨みを晴らすため
道案内を買って出たのである。
会津盆地から流れ出す阿賀野川の下流
新潟県安田町でも、会津藩兵は六野瀬という
集落を焼き払った。その翌日の八月一日
会津藩兵は、阿賀野川に面した砦を
守っていた二十四人のうち、二十三人が
戦死したのだが、六野瀬集落の人々は
「会津のやつらは……」と言いながら
遺体を阿賀野川に投げ捨てた。 外国人が見た会津の酷い有り様
駐日英国公使館付き医員ウィリアム・ウイリスの報告書
・会津藩政の苛酷さとその腐敗ぶりは領内の何処でも一様に聞かれた
・会津兵は新政府軍兵士ばかりか、非戦闘員の人夫たちまでをも殺した
・会津兵は民家に押し入っては略奪を繰り返し、婦女子を乱暴し、それに反抗した者を 惨殺した
・会津の領民は徒党を組んで竹槍で武装し、後退する会津軍の退路を阻んだ
・会津藩降伏後、会津の領民は護送さかな態度で見送った 原発も会津絡み
福島原発が作られた当時の東電社長も福島人
東電関係者の解説 渡部氏は、東電の“中興の祖”といわれる
故・木川田一隆元会長と駝懇の仲だったのです。
渡部氏が一年生議員のころ、当時社長だった
木川田氏が福島出身だったので後援会長就任を打診したほどです。
また、福島第一原発を作ったのは木川田氏が社長の時代でもありました。
正確には原発を福島に誘致したのは、福島が木村王国と呼ばれていた頃
当時県知事の「木村守江」が福島第一、第二の原発を誘致した。
当時の東電社長 木川田一隆と親交が深く雇用対策として誘致した。 領民からも嫌われる会津
会津世直し一揆
かねてからの重税や物産の専売制度による
搾取に加え、藩主松平容保が
京都守護職として上洛して以来
その経費を賄うために行われてきた
増税に対する不満に一気に火を
つけることになった。
9月22日(1868年11月6日)
会津藩が明治政府に降伏すると
たちまち藩政崩壊による権力の
空白状態に乗じた民衆蜂起が勃発した。
会津藩降伏後、明治政府は
民政局を設置して暫定的に行政を行わせ
村々の支配は従来の村役人に
当面任せることとした。
だが、これまで会津藩当局の支配の
末端を担った郷頭・肝煎ら村役人
(彼らは地主として小作料を徴収し
また債務により農民を従属的地位に
追いやる者も多かった)を排斥するように
求める農民たちの動きが領内各地で高まり
会津藩降伏のわずか10日後の10月3日に会津若松から遠い大沼郡でまず一揆が勃発し
以後、領内各地に波及していった。 放火がやめれない会津
・4/28会津兵、安積、駒屋、守屋等に進出して所々に放火をする。
・5/20会津兵、中山村に火を放って退く。
・5/31駒野村を襲った会津兵、帰途に八幡村・
富岡村にも放火する。
・10/7会津藩士高橋権太夫、亀ヶ城に火を放って退却
会津戦争詳細年表より まともな福島県民のコメント
>私は福島県民ですが
>恨文化反対さんと同様、若松の歴史観は
>どうにかならないものかと思っている者です。
>若松の方に訊きたいのですが
>一部(と信じたいです)の若松人が
>主張する「おのれ薩長」的感覚は
>どうしたら解けるのか?
>薩長が若松人の許しを得るのは
>何が必要なのか? まともな回答を
>聞いた試しがありません。
>むしろ「いくら謝ったって許さね〜!
>とにかく俺たちは正義なんだ!」
>という考え方に凝り固まっている
>ようにすら感じます。そんなことでは
>「反若松」の論調もなかなか
>収まらないのではないでしょうか?
>同じ福島県民としては
>若松の方が一刻も早く未来に希望の持てる
>歴史観、地域感を抱けるようになることを
>希望したいものです。 >明治8年生まれの祖母に
>薩長を許してはならないと
>常に言われて育った。
>この会津人の誇りが
>私の信念に結びついている。
>薩長の中心地に幸楽苑の看板を立ててみせる。
みやぎ會津会での公演で
幸楽苑の社長が言った言葉だよ。
みやぎ會津会のHPからの抜粋です。
ただしこの内容が某掲示板に
晒されるようになると記事は消されました(笑)
ねっ、こうやって恨み節を
子々孫々伝えてるのが会津という地域なわけだよ。
嘘の恨みごとをね。 >突いた刀を力づくで抜くと
>まだ突然の突きに放心状態で立ち尽くす
>長州人の背中をやおら左足で蹴り飛ばす!
>「馬鹿め薩長!wwwww」
会津新撰組まつりに参加した
阿吽記というブログから抜粋しました。
この記事は2007年のもののようですが
会津若松市では毎年やってる祭りみたいですね。 >会津という神話—二つの戦後をめぐる死者の政治学
>田中悟[著]
>神戸大学助教(政治学)
>[掲載]2010年4月25日
>「いまだに長州への怨念を抱いている」
>お酒の席でそんな思いを吐露する会津の人と
>私はこれまで何度も出会ってきた。
政治学者である田中教授が
会津で調査した事をまとめた調査書です。
>「いまだに長州への怨念を抱いている」
>お酒の席でそんな思いを吐露する会津の人と
>私はこれまで何度も出会ってきた。
会津では会津プロパガンダが蔓延し
会津恨人を生み続けています! >今年、日本は1868年の明治維新が
>始まって150周年になる年だ。
>今の安倍総理は明治維新勢力の子孫だ。
>明治維新勢力は植民支配と太平洋戦争を
>起こし、私たち民族はその勢力の
>最大の被害者だ。
キム・ヨンデ(弁護士)
ソース:金泉新聞
会津プロパガンダと反日プロパガンダは思考が同じ。 本当は謎がない「幕末維新史」
幕末から明治にかけての戊辰戦争の影響で
福島県人(会津)と山口県人(長州)の
仲が悪いといわれるが
それは後の創作が影響している。
会津戦争のとき会津の庶民が
あまりにも官軍に協力的だったことは
司令官の板垣退助が驚くほどであった。
新撰組は京都の治安を守って
住民から感謝されていたというのはウソで
警察に雇われたヤクザようなものだった。
池田屋事件はヤクザの出入り同然で
京都市民から大反感をくらっていた。
このように一般的に語られている
幕末維新史には、のちにつくられた
創作が非常に多い。
歴史小説の影響も大きい。
そんな中、歴史分野で私の師匠にあたる
八幡和郎先生が
『本当は謎がない「幕末維新史』という
本を出版された。
小説や大河ドラマで語られるような
つくられた歴史と、本当の歴史を
整理した内容となっており
意外な幕末史の姿が明らかとなり
非常に勉強になる。 会津戊辰戦争・戸ノ口原の戦い
日向内記と白虎隊の真相
富田国衛著
白虎隊は敵の襲撃で散り散りとなり
戦死した者5名。隊長以下17人は
無事に城に帰還した。飯沼氏のグループは
飯盛山にたどり着きその内、飯盛山で
自刃したのは飯沼氏を含めて6人だけ。
他は「城に帰ろう」と山をおりたが 滝沢口で官軍に遭遇して撃たれて戦死した者
「捕らえられるよりは」と他の場所で
自刃した者。無事帰還した者もいた。
飯盛山の「建碑・慰霊祭」の発起人には
白虎隊士の生き残り6人も名を連ねているが
その趣意書には「戸ノ口原に屍をさらし
生き残った者僅かに19名。全員が飯盛山で
自刃した」となっているという。
生存者も全員戦死、自刃になってしまったのだ。
これは、白虎隊の悲劇をことさらに
宣伝するための作為だったと言わざるを得ない。
太平洋戦争の映画で「全員玉砕と本部に
通信したのに、生存者がいてそれは困ると
自決を強要する」ドラマがありました。
白虎隊も「全員自刃でなければ困る」
というのです。全くアホらしい。 ワロタwwwwwwwwwwwwwww
白虎隊の墓は数を増やしていたwwwwww
>飯盛山に墓がある19人の氏名
>明治17年に16人の墓が造られ
>のち23年に19人の墓となる
本当ウケるわwwwwwwwwwwww
んで、飯盛山で自刃した本当の
人数は6人なわけだろ?wwwwww
>白虎隊隊士の切腹は20人ではなく6人!
>会津歴史研究会会長の井上昌威氏の
>研究により20人切腹19名死亡の
>嘘が覆りました。
>勘違い切腹も嘘です。
>飯沼貞吉の回顧録に
>勘違い切腹は出てきません。
>そうなると疑問視されるのは
>飯盛山にある 隊士19人の墓ですよねw
悲劇をでっち上げ観光化に繋げたいの
バレバレじゃんwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 白虎隊の遺体は当初滝沢妙国寺に埋葬された。
『明治7年、滝沢妙国寺から改装。遺骸会葬をする。』
何故?
『明治17年8月25日、容保も参列し飯盛山にて、16士で墓を整備。』
自刃は6人なのに何で16も墓があるの?
『明治23年、23回忌で墓が19士となる。』
何で増えてるの?
『』は歴史家・石川明夫の会津物語より抜粋。
石川明夫は会津出身で
会津古城研究会長
会津ユネスコ協会運営委員長
福島県会津若松市東市民センター
会津若松市教育委員会東公民館主幹
を勤めてるバリバリの会津寄りだよ。
その石川明夫が妙国寺から改葬した
当初の墓は16で後に19増やしたと書いてるんだぞw くっそワロタwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
>西川勝太郎(白虎隊の生き残り)は
>通りかかった農夫に
>遺体の埋葬を頼みました。
>しかし農夫はあろうことか
>遺体から金品を盗み出します。
>その農夫腕を1人の隊士が掴みました。
>飯沼貞吉です。
>農夫は驚き飯沼を岩山まで運ぶと
>飯沼の刀を奪って逃げるのでした。
会津の武士がどんだけ嫌われてたか
よく分かるエピソードだし
西川が農夫に遺体の埋葬を頼んでる時点で
会津プロパガンダの20人切腹19人死亡が
嘘だとダメ押ししちゃってるよねw
会津は被害者ビジネスで嘘つきすぎだよwww 長州の医者山根孝仲は長州兵だけでなく
会津の婦女子も診療していた。
(会津従軍診療簿)
会津家老海老名の子孫は萩移住し
長州人の情愛を感じ
特に唐樋の白虎隊の冥福を祈る地蔵堂に感激。(萩文化昭和十五年十二月号)
(萩史料(五)三好晃太郎)
さあ、どうする?会津プロパガンダ洗脳者よw
散々長州に虐殺されたみたいに発信してたよな?w 明治3年2月、若松県
(旧会津藩領に設けられた県)
から新政府への報告書によると
「若松県下方数十里の間一円
贋金贋札製造所にて、其の筋に
関係せざるもの殆ど稀なり」
と、旧会津藩士を中心に
贋金づくりが横行していたようです。
寛永通宝のニセ金は
東北地方を中心に大々的に行われていました。
ニセ金というより
「彷鋳銭」と呼ばれています。
南部藩や仙台藩などでは
藩ぐるみでやっていた可能性が強いです。 束松事件
明治2年に起きた会津人による
民生官暗殺事件である。
会津の武士の中には徒党を組んで
強盗をやるような不逞の輩も出た。
なかには偽金を作製し流通させていた者も発生した。
従って時の政府は取締りを強化するところとなった。
鋳造した偽貨幣を取締まる民政官として
会津に派遣されて来た越前福井の久保村文四郎がいた。
彼が任期で交替すべく越前に帰る時
会津の伴百悦、高津中三郎は
束松峠で彼を襲撃惨殺したというのだ。
これが世に言う束松事件である。 明治元年(1868)9月22日の開城後
10月1日に民政局が設置されるが
2000余の会津藩士の遺体は賊軍という
汚名のもと埋葬することも許されず
腐乱するがままになったと巷間
言われているが、同月4日には
郭外に放置されている遺体を
城中の分から始め、阿弥陀寺(七日町)と
長命寺(西名子屋町)に埋葬するよう命じた
「遺体埋葬令」が出された。
(会津若松史6巻)
だが降雪と12月までに頻発した一揆のため
作業が中断されたとするのが実情で
この間「彼我の戦死者一切に対して
決して何等の処置をも為すべからず
もしそれを敢て為す者あれば厳罰す」との
会津若松での明治新政府通達が出された。
こうして阿弥陀寺1281、長命寺145など
16ヶ所に総数1634の遺体が、2ヶ月にわたり
埋葬された。
埋葬されてるって自分達で資料出してるじゃんwwwwwwww ドイツの国立軍事文書館に
会津の売国を示す文書が3通あった。
1868年7月31日、プロイセン駐日代理公使
フォン・ブラントは「会津から北海道などの
領地売却の打診があった」として
本国に判断を仰ぐ手紙を出した。
会津は当時、北方警備のため、幕府から
根室や留萌などに領地を得ていた。
手紙には「交渉は長引かせることができる。
どの当事者も困窮した状況で
優位な条件を引き出せる」と記されていた。
この「北海道など」の「など」に今の
新潟県東蒲原郡(当時会津藩領)も含まれている。 見せしめの為に会津人の死体を野晒しにしたのは嘘だった!
>幕末の戊辰戦争(1868年)で
>戦死した会津藩士が
>埋葬されたとする史料が
>福島県会津若松市で見つかった。
>同市在住の歴史研究家
>野口信一さん(68)が
>2日、市役所で記者会見し発表した。
>これまでは新政府軍が遺体の埋葬を
>許さなかったとされてきたものの
>史料には埋葬の場所や経費などが
>詳細に記されており、野口さんは
>「埋葬を裏付ける貴重な史料だ」
>と話している。
嘘をついたのは誰なのか?
>太平洋戦争の終戦後に書かれた
>『会津史談会誌第33号』の
>『明治戊辰戦役殉難之霊奉祀ノ由来』には
>新政府軍の命令によって遺体の埋葬が
>禁じられたという記述がある。
死体埋葬禁止の嘘を発信したのは会津史談会でした。 会津のバカ侍、領民に見捨てられるの巻
会津藩家老西郷頼母は戦況が圧倒的に
不利と見て藩主・松平容保に降伏を進めるが
容保は徹底抗戦を主張し徴兵に乗り出した。
また、藩側に逃げてきた農民や町人らも
武器を渡され戦うことを命じられることとなった。
しかし他の藩と同様に、会津藩も領民に対して
苛酷な税金を課していたため、重税さらには
戦争にまで巻き込まれる形となった領民たちの士気は低く逃走者が後を絶たなかった。
意気揚々と鳥羽・伏見の雪辱に燃える
会津藩士とは対照的であった。
とくに藩の軍資金確保を名目に資産の
ほとんどを徴発された会津の町人たちに
至っては、征服者である新政府軍を
「官軍様」と呼び、会津藩士を
「会賊」と呼びすてにした。
また、新政府軍の拠点確保を
阻止するため、一部の村々を
焼き払ったことも領民たちの恨みを深くした。
そのため、後に進軍してくる新政府軍が
会津藩領の村々から大量の人夫・馬
軍資金などを徴発しても、反発するどころか
歓迎してこれに応じる者までいる有様だった。 幕軍は人を食っていた
会津藩兵も退却する時に
民家に放火したりすることが多かったので
越後国内では次第に領民から
疎まれるようになってゆくのが
後藤平太の日記から伝わってくる。
会津藩兵と同行した幕府の衝鋒隊の
桃沢輩下の兵が、殺した敵の生き胆を
取って来て「まだ脈がある故、ご覧ぜられよ」
と「ヒツコヒツコ」と活動しているのを見せた。
「いずれに用するや」と聞くと
「食するなり」と言って飲みこんだと
5月9日の日記に書いてある。 会津は人を食う文化があるようだ
会津藩郷医江川元逸『旧記集録』
官軍方密偵(高田藩)が捕えられ
斬首された時、肝臓を切り出して
酒の肴に醤油をつけて
食べたことを書き残している。
日光口でもあったと記録にある。
この様な、内戦における憎悪の
激しい狂気が記述されている。 世良の「奥羽皆敵」の手紙は工作だった!!
会津藩より世良修蔵の偽手紙をこしらえて
大山格之助へ遣わす途中、仙台人が
この手紙を見たところ、仙台を滅ぼすとの
文字があった。仙台は藩を挙げて怒り
どうせ滅ぼされるなら、会津に与して滅ぼうと
ついに世良を殺して、奥羽諸藩と連合したのである。
世良の暗殺は、仙台藩が一向に本気で
会津攻めを行おうとしないことに
立腹した世良が、秋田に転戦していた
同役参謀大山格之助にあてた書簡に
「奥羽皆敵と見て」と書いたことを
仙台人が知り、怒って殺害したというのが通説
(『仙台戊辰史』など)である。
だが、この大村書簡によると
明治元年九月の時点で仙台藩は「世良書簡は偽造だった」と認めていた。大村は、仙台藩の
嘘(偽造を会津の手によるものとした)
とみて、憤慨したものらしい。
大村益次郎研究家 山本栄一郎 白虎隊士中二番隊は37人いて
17人は隊長日向内記とともに
城に戻っているのです。
(日向内記と白虎隊の真実)
つまり日向隊長が1人で
食料調達に行ったというのは
会津プロパガンダによる嘘。
会津プロパガンダの嘘によって
日向は叩きまくられ
子孫は名乗ることすらできなかった。
飯沼貞吉の話は逃げ回っていただけで
戦って戦死者が出たことは語られてない。
飯沼貞吉のグループこそ
本隊とはぐれたメンバーの可能がある。
本当会津人はろくでもないわ。 死体埋葬禁止の嘘が出回ったのは
昭和30年代で、その時代は日米安保を
山口県出身の総理大臣・岸信介か進めていたので
パヨクが学生運動でデモやっていた。 >薩摩・土佐を中心とした新政府軍が
>会津へと迫る中、会津藩家老・西郷頼母は
>どう見ても勝てぬ戦と悟り、松平容保に
>降伏を進言するが、容保は徹底抗戦の構えを
>崩すことはなく、西郷の言葉は
>聞き入れられぬまま新政府軍との戦いが始まった。
>会津は、鳥羽伏見の戦いの後、軍の体制をフランス式に変え
>精神論ではなく戦力を重視するようになる。
あれ?会津プロパガンダではろくな武器も買えない中
武士道、魂で戦ったと発信してなかった?wwwwwwww 会津は悪政を敷き領民から嫌われていた。
他国に派兵し戦域を拡大し徴発行為を行って
恨みを買った。自国の領民に対しても民家を
敵に使わせないとして平気で焼き払い民衆の支持を
失った。
官軍側は、会津の領民が進んで官軍に協力し会津兵を
ゴミ同様に扱うことに驚いている。後の民権運動の
指導者的存在になる板垣退助は、このことがショックで
民権運動に傾倒したと語っているほどだ。
捕虜に対し五寸釘を打ち込んだり虐待行為や鳥羽伏見
で生首を掻き切り持ち歩くなどの蛮風も多い。
敵兵の内蔵を食うなどの猟奇的な行動も報告されている。
大人は安全地帯にいて少年兵を前線に出したり指導者
は温々と米の飯を食らって子供や婦人には水のような
粥を出しておきながらそれがおかしいとは思わなかったと
後に陸軍で大将にまでなった会津出身の軍人が述懐している。 皆さん。『三春狐に騙された』という
戯れ歌をご存知でしょうか。
そしてこれを、どういう風に
ご記憶でしょうか。
これは戊辰戦争の際、三春藩が
奥羽越列藩同盟を裏切ったとされることを
揶揄して言われてきた言葉です。
この言葉に三春の人たちは
どれだけ長い間傷つけられてきたことか。
私も、その中の一人でした。
https://plaza.rakuten.co.jp/qiriya/diary/201411260000/ ここまでの史料文献、学者の発信をまとめると
勘違い切腹は会津プロパガンダによる嘘
飯盛山での自刃人数は7名で6名死亡
自刃20名、19名死亡は会津プロパガンダによる嘘
6名は妙国寺に埋葬されたのに掘り起こし
飯盛山に改めて埋葬した
その時墓を16建て数年後19に増やし
観光地として整備したって事だね…
会津は南京大虐殺の嘘にも関わってるし
やり方が日本人じゃないわ… 長州が京都に放火し天皇を奪うという計画はやはり嘘だった!
吉田稔麿や宮部鼎蔵らは
長州藩邸に集まり計画の延期と
古高奪還のために新選組屯所に
襲撃をかける事を決めました。
そして、その事を潜伏浪士達に
伝えるために同日夜に池田屋に
集まり会合を行うことを決めます。
(維新土佐勤王史)
池田屋の集会は新撰組屯所を襲撃する集会だった! 山口県には白河踊りがあるらしい。
白河戦の後、長州兵が白河に50日駐屯し
戦没者を慰めるために踊りを覚えて
長州に帰ってからも戦没者を慰めるために
踊りを踊って現代まで伝承してるそうだ。
一方会津は会津プロパガンダで
被害者ビジネスを展開し
毎年長州人を殺す祭りを行っている。 会津はまだ嘘をつくのか!!
@aizu_tsurugajo
>斗南藩の生き地獄
>元会津藩士たちが追いやられた
>御家復興という名の流刑
自分達で斗南を選んで行ったのに何が流刑だ!
>南部藩の下北地方
>(現青森県下北地方)は
>元からの住民がいて
>長年に渡り居住していました。
>環境は良くなかったかも知れませんが
>「生き地獄」とまでいわれる
>覚えはありません。
>勝手に移住した人にとっては
>そうかも知れませんが
>そこが先祖代々の土地であり
>母なる大地です。
>斗南藩の話しは、斗南藩の移住者の
>視点(旧会津藩視点)で
>語られることが多いが
>移住者を受け入れた側からの視点での
>記録は少ない。あまりにも
>旧会津藩藩びいきの視点からの
>歴史が大きいですね。
下北出身の人も会津プロパガンダを指摘してるぞ!
会津は153年経ってもまだ被害者ビジネスか!! 会津は領地を青森県東部か猪苗代か
選択することができた。
会津士族の中には猪苗代での再興を
主張する者が多かったが
青森県東部で再興する選択を選んだ。
会津が青森県東部を選んだ理由は
領民に重税を課していたため
領民から恨まれて会津世直し一揆を起こされ
猪苗代での再興は難しいと判断したからだ。
また会津は多額の借金があり
更には偽金を作り、ハイパーインフレを起こして
領内の経済をボロボロにしていたことも
青森県東部に行く理由にもなった。
つまり長州による強制連行、流刑は
会津プロパガンダによる嘘である。 会津が郡山で放火や略奪をした史料です。
以前はネットでも見ることができましたが
なぜか削除されました。
2004 郡山市勢要覧 市制施行80周年・合併40年記念号 1.鉄道・道路を通してもらえなかった
→実際は三島県令が当時日本でも稀な大規模道路整備を若松を中心に行い、
恩恵が少なかった会津以外の人々が一揆を起こした。
→鉄道が通らないのは当然。仙台へ伸ばすには会津は経由させるべきではない。
また、磐梯山噴火などがあり若松より北へ伸ばす路線は危険が多かった
2.産業育成を阻害した
→実際は産業博覧会で三島県令が盛んに会津漆器などの産物を販売し、陶器産業も復興させている
清酒も明治以降の導入で、江戸時代はどぶろくだった
3.県都を郡山に移さず会津を引き裂いた
→郡山は新政府が開拓した都市。そこに移すのは新政府偏重と言う福島市の意見が強かった
4.学校を作ってもらえなかった
→会津高校を作ったのは明治初期、しかも三島県令と明治新政府の重役たちによる寄付だった
5.賊軍の遺体埋葬を禁止された
→「彼我の戦死者一切に対して」遺体確認作業の為禁止されていたのを作家が捻じ曲げて解釈しただけ
かなり早い時期から遺体処理を指示する民政局の達し書が出てる
会津藩士の遺体もちゃんと埋葬された
6.「白河以北一山百文」と侮辱された
→言いだしっぺは東北、わざわざ新聞タイトルにしてスローガンにしたのも東北
つまり、会津人が涙ながらに叫ぶ「被差別」話は、どれもこれも根拠がない。
新政府の援助をたらふく食った末に、貰った先を罵って、恩義はないといって済ませようとするのが会津。
どっかの国にそっくりだな 会津飯盛山で集団自刃した白虎隊。
彼らはなぜ自刃したのか?
唯一の生残り隊士が手記を残していた!
「城が燃えている」という落城説は真っ赤な嘘。
直系の孫(「白虎隊の会」代表飯沼一元氏)が
その真相を明らかにする。
奇跡的にただ一人生き残った隊士飯沼貞吉の生涯を
奇しくも祖父と同じ通信技術者の道を辿った
孫、飯沼一元氏が新たに発掘した資料に基づき、
克明に跡付ける。賊軍・死にそこないの汚名を着せられ
死処を求めてさまよったた貞吉は
偶然敵地長州で療養と勉学の時間を与えられ
やがて日本の電信技術者として大成する。
子孫も会津プロパガンダの嘘を指摘か。 会津は「今に会津が江戸になる」と謳い…
慶応4年(1868年)2月27日、松平容保(34歳)は会津藩士に徹底抗戦を通告。
西郷頼母は恭順を勧めるが、容保はじめ藩士たちから猛反発され徹底抗戦へ。
慶応4年(1868年)5月1日、白河城陥落。西郷頼母は再び恭順を勧めるが
会津藩士の多くが聞き入れず徹底抗戦を主張。頼母は登城差し止めとなる。
慶応4年(1868年)8月26日、西郷頼母は西軍と砲火を交えている評議中
「この窮地に陥ったのは余の献策をいれないためだ」と厳しく批判。
そのため「西郷斬るべし」の声が起こり容保の命で伝令され
息子吉十郎と共に城を出る。その後は榎本武揚の軍に投じて函館で戦った。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています