猗窩座は、いつの間にか泣いていた。喉を嗄らして泣き叫んだ。
手を出すなと、杏寿郎を放せと。

「俺を殺せばいいだろ。俺を連れて行け。俺を殺せと言っているだろ!」

 どんなに泣き叫んで足掻いても、デッキに押さえつけられた体は、指一本も動かせない。
 唯一自由な瞳に、人魚に拐われていく杏寿郎の姿が映った。
目が合う。
瞳に涙を溜めたまま、杏寿郎が言った。
その声は人魚の鳴き声に埋もれて聞こえなかったが、口の形ははっきりと見て取れた。
まるで耳元で囁かれたかのように、彼の声がまざまざと再生される。


 ――猗窩座、すまない。


 人魚が欄干を越えて、杏寿郎を連れ去った。
それと同時に、猗窩座を押さえつけていた人魚たちも、すべて撤退して海の中に消える。
喧しい水音の後、一瞬のうちに沈黙が訪れた。

 細切れの人魚の死体から吹き出した血と体液で、デッキがずぶ濡れになっている。
生臭い血溜まりの中で、猗窩座は、呆然と仰向けに倒れていた。
波が船を柔らかく揺らす。
 不幸なことに、猗窩座は、平穏な海と同じだけ無傷だった。

「売女ども。俺のことは殺しもしないで」

 人魚たちの目的は、猗窩座ではなかった。
最初から杏寿郎だけを狙っていたのである。
どこからか女王の哄笑が聞こえてきた。
幻聴だろうか。
猗窩座は、自分の神経が過敏になっていることを自覚する。
 ぼやける視界に広がる夜空から星が流れ落ちた。
全身が重い。
このまま空が崩れ落ちたら。
陸が打ち砕かれたら。
世界が消え失せればいいのに。
 猗窩座は、杏寿郎は自分のせいで死んだのだと思った。
世界が崩落して自分を押し潰してくれることを切に願ったが、夜空は変わることなく美しいばかりだった。