0001逢いみての… ★2022/03/10(木) 23:21:22.64ID:CAP_USER
―[モラハラ夫の反省文]―
DV・モラハラ加害者が、愛と配慮のある関係を作る力を身につけるための学びのコミュニティ「GADHA」を主宰しているえいなかと申します。
僕自身もDV・モラハラ加害者です。そのせいでたくさんの人を傷つけ、仕事や家庭が破綻寸前になり、ようやく自身の加害行為、それを生み出す加害的な思考・価値観を自覚しました。現在は日々自分の言動を改善しながら、妻と関係を再構築させてもらっています。
この連載では、僕自身の経験や当事者会での気づきを共有していきます。職場や家庭でモラハラに苦しんでいる方々、無自覚に加害を行っている方々の参考になれば幸いです。
加害者が持っていない重大な物のひとつが「愛を受け取る能力」だと僕は考えています。パートナーにケアを要求し、実際にそれをさせているのにも関わらず、与えられている愛情に気づけないのです。
以前の記事『モラハラ加害者が陥る“正義依存症”。他人を責めるとき「爬虫類のような目をしている」』で述べたように、加害者には強烈な自己否定感や孤独感を抱えている人が非常に多いです。僕自身もそうでした。自分を愛してくれる人が隣にいるにもかかわらず、常に見捨てられ不安や孤独感が追いかけてくるのです。
僕がアルコール依存に陥ったのは、その不快感情を麻痺させるためでした。
仕事で失敗した、案件がうまくいかなかった、プロジェクトでトラブルが起きた、そういった時に感じる耐え難いほどの無力感、受け入れ難い自分の弱さや愚かさに耐えられなかったのです。そんな時にはいつも、浴びるほどのお酒を飲んでいました。
お酒を失うのが怖かった。お酒なしで、どうやってこんなに苦しい人生をやり過ごせばいいのかわかりませんでした。「お酒を飲んで怒鳴るあなたが怖い」と妻が言っても、「僕の唯一の趣味を奪うのか」と、傷ついた彼女を恨み、またお酒を飲みました。
僕は「存在の不安」から逃避していました。ずっと自分のことが嫌いでした。仕事ができる、人とは違うことができる、社会的に成功した、そんな「デキる自分」のことしか好きになれませんでした。そうでない自分でいるのは不愉快で、苦しくて、嫌で仕方がなかったのです。そこに向き合うぐらいなら、世界からログアウトしたい、死んでしまいたいと思っていました。「デキる自分」と「無価値な自分」を、ジェットコースターのように往復する、そのような苦痛ばかりの人生に、妻を巻き込んでいたのです。
「何かがデキる、価値のある自分」、それがハリボテであったとしても、そうなるために絶え間なく努力をしてきました。今の僕は強く思います。その努力は恐怖に基づくものであったと。
僕は見せかけの理想を自分に求め、妻にもその幻想を押し付けていました。それは「今、ここ」にいる自分や、愛する人の存在を否定することでしかない。それがどれほど妻を傷つけ、自分のことも苦しめていたのか。その現実に気付くまで、とても長い時間がかかりました。
僕はずっと、自分の弱さを否定し続けて生きてきました。それを否定することは、愛する人の弱さやその存在を、現実に認められないことでもありました。
自分の弱さを認め、相手の弱さを認め、ケアしあう関係へと進むプロセスが、絶え間ない自己否定から僕を救ってくれました。
いつのまにか、僕はお酒を必要としなくなりました。僕のアルコール依存、そして繰り返される心理的DV加害は、妻とケアしあえる関係を築くことを通して、本当に大きな努力なしに解決してしまったのです。
このようなプロセスを経て、変容が進む加害者の方は少なくありません。そんな人たちには特徴があります。
「我慢強くなくては」「質実剛健、甘えずに自分の足で立たなくては」「一家の主たるもの、弱さを見せてはならない」「ちゃんとしなければ」「弱音を吐くなんて恥ずかしい」「愚痴をこぼしてはならない」
そんなふうに、自分が傷ついたり悲しんだりしていることを認めないと何が起きるでしょうか。
続く
以下ソース
https://nikkan-spa.jp/1817681
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僕自身もDV・モラハラ加害者です。そのせいでたくさんの人を傷つけ、仕事や家庭が破綻寸前になり、ようやく自身の加害行為、それを生み出す加害的な思考・価値観を自覚しました。現在は日々自分の言動を改善しながら、妻と関係を再構築させてもらっています。
この連載では、僕自身の経験や当事者会での気づきを共有していきます。職場や家庭でモラハラに苦しんでいる方々、無自覚に加害を行っている方々の参考になれば幸いです。
加害者が持っていない重大な物のひとつが「愛を受け取る能力」だと僕は考えています。パートナーにケアを要求し、実際にそれをさせているのにも関わらず、与えられている愛情に気づけないのです。
以前の記事『モラハラ加害者が陥る“正義依存症”。他人を責めるとき「爬虫類のような目をしている」』で述べたように、加害者には強烈な自己否定感や孤独感を抱えている人が非常に多いです。僕自身もそうでした。自分を愛してくれる人が隣にいるにもかかわらず、常に見捨てられ不安や孤独感が追いかけてくるのです。
僕がアルコール依存に陥ったのは、その不快感情を麻痺させるためでした。
仕事で失敗した、案件がうまくいかなかった、プロジェクトでトラブルが起きた、そういった時に感じる耐え難いほどの無力感、受け入れ難い自分の弱さや愚かさに耐えられなかったのです。そんな時にはいつも、浴びるほどのお酒を飲んでいました。
お酒を失うのが怖かった。お酒なしで、どうやってこんなに苦しい人生をやり過ごせばいいのかわかりませんでした。「お酒を飲んで怒鳴るあなたが怖い」と妻が言っても、「僕の唯一の趣味を奪うのか」と、傷ついた彼女を恨み、またお酒を飲みました。
僕は「存在の不安」から逃避していました。ずっと自分のことが嫌いでした。仕事ができる、人とは違うことができる、社会的に成功した、そんな「デキる自分」のことしか好きになれませんでした。そうでない自分でいるのは不愉快で、苦しくて、嫌で仕方がなかったのです。そこに向き合うぐらいなら、世界からログアウトしたい、死んでしまいたいと思っていました。「デキる自分」と「無価値な自分」を、ジェットコースターのように往復する、そのような苦痛ばかりの人生に、妻を巻き込んでいたのです。
「何かがデキる、価値のある自分」、それがハリボテであったとしても、そうなるために絶え間なく努力をしてきました。今の僕は強く思います。その努力は恐怖に基づくものであったと。
僕は見せかけの理想を自分に求め、妻にもその幻想を押し付けていました。それは「今、ここ」にいる自分や、愛する人の存在を否定することでしかない。それがどれほど妻を傷つけ、自分のことも苦しめていたのか。その現実に気付くまで、とても長い時間がかかりました。
僕はずっと、自分の弱さを否定し続けて生きてきました。それを否定することは、愛する人の弱さやその存在を、現実に認められないことでもありました。
自分の弱さを認め、相手の弱さを認め、ケアしあう関係へと進むプロセスが、絶え間ない自己否定から僕を救ってくれました。
いつのまにか、僕はお酒を必要としなくなりました。僕のアルコール依存、そして繰り返される心理的DV加害は、妻とケアしあえる関係を築くことを通して、本当に大きな努力なしに解決してしまったのです。
このようなプロセスを経て、変容が進む加害者の方は少なくありません。そんな人たちには特徴があります。
「我慢強くなくては」「質実剛健、甘えずに自分の足で立たなくては」「一家の主たるもの、弱さを見せてはならない」「ちゃんとしなければ」「弱音を吐くなんて恥ずかしい」「愚痴をこぼしてはならない」
そんなふうに、自分が傷ついたり悲しんだりしていることを認めないと何が起きるでしょうか。
続く
以下ソース
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