>>359
アタシもリンク先を見たけど、おかしな質問者が執拗に煽っているだけで、別に紛糾していないと思うわ。
ほぼ全員が360さんと同様に「2と3が素因数であって、それ以外に素因数はない」と読んでいるわ。
360さんのおっしゃる通りで、これは純粋に日本語の問題なのよ。
そして数学的内容を表すのに日本語だと不明瞭になることが多いというのはアタシも同意するわ。

でもね、ここで起きている現象って、日本語に特有のことでは全然ないの。
一般に、文の意味には、主張に加えて、前提や含意というものがあると考えられているの。

前提の話は、バートランド・ラッセルが1905年に考察した

(1) The king of France is bald.(フランス王はハゲている)
(2) The king of France is not bald.(フランス王はハゲていない)

という文に遡るの。現在フランスに王様はいないけど、これらの文は真と偽のどちらになるかしら?
ラッセルは the を「ただひとつ存在する」という意味の量化を表すと考えて、(1)は偽、そして(2)はnotがbaldを否定するなら偽、notが文全体を否定するなら真、と分析したの。

けれど1950年になって、P. F. ストローソンが、フランスに王様がいない以上、これらの文は真とも偽とも言えず真理値を持たない、と言ったの。
ストローソンは「フランスに王様がいる」ことが、これらの文が真理値を持つための条件であって、この条件が満たされていない場合、文を使用することはそもそも適切でない、と考えたの。
こういった経緯で、文を使うことができて文が真理値を持てるための必要条件を「前提」と呼ぶようになったの。

文の前提が満たされた上で、文が真か偽を決める真理条件を文の「主張」というの。
一般に、文を否定すると主張は否定されるけど、前提は否定されないでそのまま残るの。
実際、(2)を聞いた人は、(1)を聞いた場合と同様に「フランスに王様がいる」という印象を持つわよね。
文を否定したのに、この部分が否定されないでそのままなのは、これが前提だからよ。

そして、自分が知らないことを前提とする文を聞いたときに、その前提を受け入れる現象を「前提の収容」というの。
フランスに王様がいるかどうか知らなくても、(1)や(2)の文を聞くと「フランスに王様いるのね」って思っちゃうわよね。
惑星が8つあることを知らなかった人が「うさぎは惑星が8つあることを知っている」という文を聞くと、「へー、惑星は8つあるのね」って思っちゃうわよね。
ストローソンに従えば、こういう場合、文の真理値はなくなっちゃうはずだけど、現実にはみんながいちいち前提をきっちり述べながら喋ったりしないから、前提の収容はしょっちゅう起こるわ。
前提の収容が起こると、前提が主張の一部であるかのように感じられてしまうから、前提を主張から区別するのは難しいことも多いの。

前提という概念がこうして取り出されたのは最近だけど、実はこの話は古代ギリシアのアリストテレスまで遡るのよ。

(3) 男はみんなクズよ。
(4) 男はみんな獣よ。
(5) クズな獣がいるわ。

(3)と(4)を前提とすると(5)が結論できると思う人がたぶん多いわよね。実際アリストテレスはそう考えたの。
ところが、これらを論理式にすると

(3’) ∀x(Mx → Sx)
(4’) ∀x(Mx → Bx)
(5’) ∃x(Bx ⋀ Sx)

となるけど、これらの真理条件は

(3’’) {x | Mx が真} ⊆ {x | Sx が真}
(4’’) {x | Mx が真} ⊆ {x | Bx が真}
(5’’) {x | Bx が真} ⋂ {x | Sx が真} ≠ ∅

となって、{x | Mx が真} = ∅ の時、(3’’)と(4’’)が成立するけど(5’’)が成立しないの。
だから今の論理学では(3)と(4)を前提として(5)を結論できないの。

この食い違いの原因は、アリストテレスが(3)や(4)の文を考えたときに「男が存在する」ことを前提にしていたからなのよ。

一般に「すべてのPはQだ」の形の文は「Pが存在する」を前提として理解されることが多いの。
日常生活ではほぼそうだと思うわ。これを存在前提というの。
けれど数学では「すべてのPはQだ」の形の文は、Pの集合が空集合ならいつも真と理解するという決まりがあるの。
つまり存在前提なしで理解するってこと。これを知らない人が数学書を読むと混乱する可能性があるわ。