戸叶和男の『日本奇習紀行』

日本におけるサンカ研究といえば、民俗研究家の柳田國男や、いわゆる“八切史観”で知られる八切止夫などが一般的に知られているが、実際にサンカやその末裔たちと接し、その暮らし向きなどについて触れる機会があったのは、なにもこうした研究者たちだけではない。

「なんだろうね、あの人らがそういう人(サンカ)かどうかはわからないけれども、私らは“ヤマの人”と呼んでいたよ。でも、普段は口も聞かないし、お互いになるべく接触しないように、距離をとるっていうのかな。そういう不文律はあったから、詳しくはよくわからんのだけれどもね」

その幼き日に、サンカの末裔と思しき人々と交流を行っていたことを、今回、我々の取材に対して明かしてくれたのは、東海地方のとある寒村で今なお暮らす土屋太郎さん(仮名・89)。土屋さんの話によると、彼がまだ少年だった昭和初頭、彼らの住む集落のはずれには、その出自が判然としない“ヤマの人”と呼ばれる人々が定住していたという。

「普通ね、あのあたりじゃ、その家がもともとどの家の分家で、どの家がどの家と何代前にくっついて……みたいなことがね、大昔の代からわかっているのが普通だったんだけれども、ヤマの人たちはそれがなくてね。じいさんたちの話じゃ、かなり大昔に、山の中から降りてきて、空いた土地で暮らし始めたっていう話だったよ。もちろん、屋号なんかもないもんだからね、“ヤマの人”って呼んでいたっていう」

基本的に一箇所に定住することがなく、漂泊の暮らしを続けていたいわゆる「サンカ」と呼ばれる人々たちの中には、その後、時代の変遷と共に、山から下りて「トケコミ」「イツキ」と呼ぶ定住化を行う人々が現れるようになり、やがては「サンカ」以外の人々とも見分けがつかない状態となったといわれているが、そうした意味で言えば、土屋さんたちが見ていた“ヤマの人”たちも、そのような人々であった可能性が高いと見るべきだ。

「限られたときしか接触しなかったものだからね、正直なところ、あの人らがどんな人たちかっていうのはよくわからないんだよ、未だに。けれども、当時の大人たちの話だと、とにかく獣や草花に関する知識が豊富だったとは聞くね。とにかくみんなが知らないようなことをたくさん知っていたようだしね」

「イツキ」や「トケコミ」を行うまでの間に、何代にも渡って、大自然の中で暮らし続けてきたとされるサンカの人々には、我々の知る歴史とは大きく異なる時間が流れていたのだろう。それゆえ、彼らには独特なノウハウや習慣が存在していたと考えられるが、その大半は今なお謎に包まれたままだ。土屋さんは続ける。

「たとえば、あのあたりじゃ、お医者なんかもろくにいなかったものだから、なにか病気になると、ヤマの人に頼んで薬を作ってもらって、買ったりとかっていうのはあったね。それと、獣の解体かな。あの人らはね、それこそ見事な腕前で、小刀ひとつであっという間に大きな猪や鹿なんかも捌いてしまう。だからそういうことを仕事として頼むときだけ、あの人らと接してたようだよ。あとはね、男も女も、ものすごくあっち(精力)が強いっていう話は聞いたことあるけれども、それは試したことがないから、わからないな(苦笑)」

それ以外にも、“ヤマの人”たちは土屋さんらとは違い、入浴や排泄などを家屋の中で行わず、近くを流れる川で行っていたり、「家」ではなく、手作りと思しき「小屋」のような簡素な建物で、なぜか冬でも半裸に近い状態で生活するなど、周囲の人々とは違った暮らしをしていたという。土屋さんの話では、今ではその末裔たちも、自身の祖先がそうした“ヤマの人”であったことを知らぬほどに、周囲に溶け込んでいるというが、願わくば、彼らしか知らないそうした独特な生活様式や習慣、ノウハウを、我々も垣間見てみたいものである。

以下ソース
http://tocana.jp/2018/01/post_15262_entry.html

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