スポーツ好きにプロレスの話題を振ってみると、決して少なくない者が微妙な反応を見せるだろう。「だってプロレスって……」。それに続く言葉はご想像の通り“ショー”である。しかし、ショーの一言で片づけられるほどプロレスは単純なものではない。プロレスファンはある種の哲学者であるというのである。

 米ニューヨーク州にあるユーティカ大学の哲学者、ダグラス・エドワーズ助教授が心理学系メディア「Psyche」に寄稿した記事は、哲学者がプロレスを語るという興味深い内容になっている。“ショー”であるプロレスのファンは、なんと真実を追求する哲学者であるというのだ。

 古代ギリシアの哲学者、プラトンの著作『国家』の第7巻には、プラトニズムの中心的な考え方であるイデア論をわかりやすく説明するために、「洞窟の比喩」が解説されている。

(プラトンの師の)ソクラテスによれば、この世において我々は洞窟の中で壁に向けて縛り付けらた存在であり、我々が見ているものは背後の焚火に照らされて洞窟の壁に映し出された影であるという。つまり我々がこの現実で見て感じているものは幻影であって、本質である“イデア”は見えてはいないということになる。しかしこの見えていないイデアを常に追い求めることが学問であり、真実を愛する道であるというのだ。

 現実は真実の幻影であるとすれば、なんのことはない。今回のテーマに絡めれば、スポーツの試合や勝敗もまた幻影であることになる。そこで注目されてくるのがプロレスなのだ。

 対戦相手との真剣勝負であり“2人だけの世界”であるボクシングとは違い、プロレスの試合はレスラー同士の闘いの中で観客を盛り上げ、また興奮した観客が選手を鼓舞するという、会場が一体になるショー的要素が特徴である。そしてそれぞれのレスラーにはベビーフェイスとヒールという“キャラクター”があり、各々の“ストーリー”がある。積極的な観客の存在とレスラーのキャラクターとストーリーが組み合わさったものがプロレスの“現実”なのだ。

 プロレスのファンはこの“現実”から真実を追い求めているとエドワーズ助教授は説明している。目の前で繰り広げられている試合の背後にある真実が垣間見える瞬間を期待して観戦し、応援しているというのである。レスラーがその“役割”と“物語”をかなぐり捨て感情をむき出しにして闘う時、観衆は一縷の“真実”を目撃するのだ。

 社会生活を送る我々にも、期待されている役割やキャラクターがあるだろう。そしてそれぞれの人生にストーリーがある。その意味では人生はプロレスなのである。そしてプロレスファンは、お膳立てされた試合中であっても、そこで垣間見えるレスラーの真の姿と技を目撃することを期待し、感情移入しているというのだ。

 しかしながら、もちろん我々が現実の背後にある真実=イデアを見極めるのはきわめて難しい。真実を見せないように働く外部的要因もあれば、我々自身が実は心の中で真実を直視したくなかったりもするのだ。

 それでもプロレスファンや哲学者のように、我々は真実を追求したい衝動を持っているのだが、この取り組みは永遠に妨げられ続ける。

 そこで フリードリヒ・ニーチェは「真実を失うことのないように、私たちは芸術を持っている」と言及している。真実の追求のために奈落の底をじっと見つめるのではなく、芸術を通してそれを知る必要があるというのだ。

続く

以下ソース
https://tocana.jp/2020/09/post_168108_entry.html

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