1908年(明治41年)8月10日から3日間、大がかりな「わいせつ物」の取り締まりが実施された。春画・猥本など16万部、裸体写真12万枚、春画の版木7000枚、写真原板2000枚におよび、関係者100人あまりが検挙された。

 大半は、1904年から1905年にかけておこなわれた日露戦争時に、政府・軍部が兵士の慰安のために組織的に制作・配布した写真だとされている。戦争が終わっても回収しきれず、戦後もひそかに作り続けられたものが出回っていたようだ。

 風俗史研究家・下川耿史氏の著書『日本エロ写真史』のなかで、日露戦争に軍医として従軍した人物のメモが紹介されている。

《今回の征露役でもやはり色の供給欠乏には大変に困った。(陣中を)見るに、最初には美人絵ハガキが流行し、豊満艶麗なる容姿を見ていくぶんの欲望を満たしていたが、ついにはそのような手段では満足できず、最後には春画の流行(はやり)となり、裸美人写真の流行となり、人々、競ってこれを求め、『野外要務領』や『弾丸除け』と称し、新しいものを手に入れようと競い合い、変わったものを持っていることを誇るなど、その種類はあげるにいとまがないほどであった》

 ちょうど日露戦争後の時代は、わいせつ物の取り締まりが厳しくなった頃である。歴史学者の濱田浩一郎さんが、こう語る。

「明治の初期、わいせつ物の取り締まりは比較的ゆるいものでしたが、法律が整備されていくと、徐々に厳しくなっていったようです。

 検閲制度自体は、1868年(明治元年)から設けられています。この年の太政官布告で、事前に政府の許可を得ずに出版されたものは、吟味のうえで没収され、著者や発行元、書店までも処罰することが規定されました。翌年に出された出版条例や、1875年の新聞紙条例では、『淫風』や『淫蕩』といった言葉を使用しながら、わいせつ物に罰金を科すことが明記されています。

 加えて、1882年には刑法が施行され、風紀を乱す書籍や、わいせつな物品を陳列あるいは販売した者に4円以上40円以下の罰金とされました。当時、公務員の初任給は月に8〜9円程度ですから、かなり高額といえます」

 明治時代のジャーナリスト・田島象二の『田島任天翁の遺著』には、幕末、神田川沿いに春画専門店が並び、過激な中身を何十冊ぶんも見せながら、田舎者に売ったと記されている。江戸時代は、春画などに対し、比較的規制がゆるやかだったことがわかる。

「幕末のわいせつ物は版画による春画ですが、日露戦争の頃は、写真絵葉書が数多く流通するようになります。警察としても、露骨な写真はまずいと思ったのでしょう。

 1906年の3月、深川区で女性の裸体写真絵葉書の原盤109枚と、既製品の約2000枚が押収されています。これは、巡査が街をパトロールしているときに、学生たちが『あそこの絵葉書屋に行けば、裸体の絵葉書がいつでも買える』と話していたのを小耳にはさんだのがきっかけだったのです。すでに、わいせつ写真が巷に出回っていたことがわかります。そして、1908年の大規模な摘発につながるのです。

 わいせつ物を求める民衆と、それを規制する警察とのいたちごっこは、まさにこのとき始まったと言えるのです」

以下ソース
https://smart-flash.jp/sociopolitics/153622

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