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2023/12/26(火) 23:39:26.76ID:CAP_USER果たして江戸時代の人はどうやって避妊や中絶を行っていたのでしょうか?
また現在の私たちとどのように子ども観が異なっていたのでしょうか?
本記事では江戸時代の人がどうやって避妊や中絶を行っていたのかについて紹介していきます。
なおこの研究は了コ寺大学研究紀要10号p. 77-86に詳細が書かれています。
江戸時代はまだ医療が未熟だったこともあり、効果的な避妊法がありませんでした。
しかしそれでも、様々な避妊方法が行われていたのです。
具体的には朔日丸(さくじつがん:月の第一日に服用すれば妊娠しないとされた丸薬)や天女丸(効能書きによると生理不順にも効くうえ,服用をやめればすぐに妊娠するという)といった飲み薬が用いられ、漢方やハーブなどが材料とされていました。
しかしこれらの薬は科学的根拠に乏しく、効果がないどころか水銀などが含まれていることもあり、健康に悪影響を及ぼすこともあったようです。
他にも鍼灸や膣洗浄、はたまた茎袋(現代のコンドームに相当)の使用が行われ、膣挿入薬として梅干や酢、ミョウバンが使われましたが、当然ながらこれらに効果はありませんでした。
そのためこの時代の避妊法は機能していたとは言い難く、結局中絶をすることが多かったのです。
中絶は江戸時代においもて一般的であり、堕胎医と呼ばれる専門の女医が存在したほどです。
彼女らは水銀と米粉を混ぜ合わせた中条丸と言われる薬や鬼灯の毒を使って中絶を行っていましたが、高額で一般庶民には手が届きませんでした。
そのようなこともあって庶民は、寒い冬に冷たい水に浸かって流産を試みる、腹部を圧迫する、高いところから飛び降りるといった力業で中絶を試みていたのです。
またこの時代において、堕胎よりも出産後の間引きが母体にとっては安全な方法であったということもあり、農村部では、「嬰児殺し」(間引き)が広く行われていました。
間引きの方法には、直接的な手法として口に濡れ紙を当てたり、手で口をふさいだりする方法があり、ネグレクト的な手法として乳を与えずに放置する方法も存在しました。
間引く子供の選別においては、特に女子が対象とされ、当時の文学や教訓の中にもその実態が表れています。
江戸時代は男子の方が家の継承や労働力として期待されていたため、女子が捨てられるケースが多かったのです。
また、障害児に関しては、信仰やタブーが影響していた時代背景があり、共同体の生産性や災厄からの回避という観点から積極的に間引きされていました。
それでは江戸時代の親たちは,血も涙もないサイコパスだったのでしょうか?
しかし江戸時代の親たちの子ども観や人口調節の実態について考察すると、子どもに対して愛情が無かったから平気で間引きが出来た、というわけではないことがわかります。
ここには当時の時代背景と大人たちの生命観が影響しています。
その1つは人口調整の必要性です。
江戸時代の人々は頻発する飢饉や土地の不足、鎖国政策により余剰人口を新しい土地に送り出す余地が限られていたため、人口を調整しなければならないと捉えていました。
とりわけ天明の飢饉では食物不足が深刻で、生き延びるための厳しい選択肢として堕胎・間引きが積極的に取られていたのです。
2つ目は母子ともに死亡率が高かったことです。
江戸時代の出産においては10〜15%が死産であり、1歳までの乳児死亡率や5歳までの幼児死亡率が極めて高かったです。
また女性の死因として「難産死」が最も多く、母子ともに出産は命がけであったことが示唆されています。
そのようなこともあって、江戸時代の人々は、子どもの生命観においても現代とは異なる考え方を持っていました。
特に出産や死に対する認識が異なり、「7歳までは神のうちであり、子殺しは子どもを神に返すこと」という生命観が広く共有されていたのです。
七五三という年の節目で子どもの成長を祝う慣習も、こうした当時の考えから生まれたものです。
続く
以下ソース
https://nazology.net/archives/140089