【吉原】吉原三浦屋Part1【角海老G・老舗】
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【風俗情報】
【吉原三浦屋 2013年7月13日(土) グランドオープン!】
所在地/東京都台東区千束4−16―12
電話/03-3871-4384
営業時間/12時〜24時
システム/80分 総額28,000円 指名料2,000円
送迎/三ノ輪、上野、浅草、日暮里、南千住から無料送迎あり
〈系列店〉
「角海老G」
http://www.kadoebi.co.jp/
〈過去スレ〉
なし 【注意!】
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「予告.in」に通報を。
http://yokoku.in/
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□dat落ちしないよう、皆様方の投稿、協力をお願いします。 【「吉原三浦屋」と『助六所(由)縁江戸桜』(すけろくゆかりのえどざくら)】
「吉原三浦屋」は名門で、歴史は古い。江戸歌舞伎の舞台ともなった。『助六
所縁江戸桜』は歌舞伎十八番の一で、有名。世話物。一幕。正徳3(1713)年、
『花館愛護桜』(はなやかたあいごのさくら)の二番目として、江戸山村座で2世
市川團十郎が初演。宝暦・明和(1751〜1772)ごろ、現在の形がほぼ完成。
「吉原三浦屋」を舞台に、河東節を配した江戸歌舞伎の人気作品。通称「助六」。
助六の愛人は「三浦屋の揚巻」。「あげ」と「のりまき」があることから、「助
六寿司」の名の起こりとなった。 【「吉原三浦屋」と「高尾太夫」】
「吉原三浦屋」に伝わる大名跡。吉原の太夫の筆頭ともいえる遊女の名。高尾
太夫は吉原で最も有名な花魁で、その名にふさわしい遊女が現れると代々襲名
された名前で、吉野太夫・夕霧太夫と共に三名妓(寛永三名妓)と呼ばれる。 「三浦屋」は営業禁止の警察の措置期間が終わったようだね。遅まきながら、祝杯。
かつての「角えび本店」と「三浦屋」摘発のいきさつ。
http://shinkai.livedoor.biz/archives/51496334.html テンプレで、開店が7月13日(土)と記しましたが、保健所の検査が長引いていて、
1〜2週間ほど遅れるそうです。検査が終わりしだい開店となります。今しばらく
猶予を。 【三浦屋は江戸時代には超高級店だった――「三浦屋のあゆみ」より】
三浦屋の歴史は角海老よりももっと古く、何と400年もの歴史を持ちます。 こと
に三浦屋は吉原の歴史の中では大きな存在を占め、最高級の女太夫を沢山輩出
した、由緒ある大店(おおだな)です。遊郭初期の頃には、大名クラスの富裕層
でなければ通うことすらできない、大見世(おおみせ)と呼ばれる格式高い遊
郭でした。 【三浦屋の花魁】
「高尾大夫」という名前は代々三浦屋抱えの名跡(源氏名)で、最初の高尾大
夫が身請けされたりすると別な遊女がその名を継ぐことになっていて、7代また
は11代まであったという説がある。 【三浦屋の有名な花魁】
【初代 高尾大夫】
通称、妙心高尾と言われ、子連れで廓内を道中したので子連高尾とも呼ばれ、
隠退後は尼になった。
この高尾も遊女としては珍しく、現在も墓が残っている。
【二代目 高尾大夫】
この仙台高尾が高尾大夫の中ではもっとも有名。源氏物語、枕草子も読破する
など教養があり、俳諧をよくしたといわれる。
伊達62万石の3代目藩主・伊達綱宗が高尾の体重と同じ重さの小判を払って身
請けしようとしたが、高尾には既に恋人がおり、「わちきも廓育ち。意地と張
りが命でありんす」と言って仙台候の意に従わず、隅田川の船上で逆さ吊りに
されて斬られたというのが俗説。
この時高尾はまだ19歳だったと言われており、遊女ながら女の意地を見せた高
尾太夫に江戸庶民は拍手喝采だったそう。
そして浄瑠璃や歌舞伎に取り上げられ、芸界では「高尾物」と呼ばれるほどに
なった。 【六代目 高尾大夫】
落語で有名な高尾大夫。駄染高尾とも呼ばれた。
染物職人・久蔵は、26歳になるまで女遊びもしない真面目な男だったが、吉原で
見た花魁道中の紺屋高尾に一目ぼれ。だが高尾大夫に逢うには給料の3年分の金
が必要。会いたい一心で身を粉にして働き、やっと逢うことができた。
だが、次回、高尾大夫に会うのは3年後。それを考えると久蔵はさめざめと涙
を流す。高尾大夫が不思議に思って久蔵にわけを尋ねると、「私は3年、必死
になってお金を貯めました。今度といったらまた3年後になる。その間に身請
けされたら、もう2度とあなたに逢うことができない。だから今夜が今生の別れ
です」。
この情のある言葉に感激した高尾大夫は「私は来年の3月15日に年季が明けま
す。そうしたら私を嫁に貰ってくれませんか」と言います。
そして久蔵と高尾大夫は晴れて夫婦となり、親方の紺屋の後を継いで、2人で
真面目に店を切り盛りして、大いに繁盛させたというエピソードがある。 「江戸吉原」は、幕府が開かれてもない1617年、日本橋葺屋町に遊廓が許可され、
幕府公認の遊廓が誕生したのが始まり。だが、こちらの吉原は1657年の明暦の大火
で消滅。
大火当時、周囲の市街化が進んでいたことから、吉原は浅草寺裏の日本堤に移転
を命じられる。この移転した浅草のほうの吉原は、正式には新吉原(略して吉原)
と呼ばれることになる。
吉原は女性を前借金で縛る人身売買の場所でもあったが、大名や教養のある文化
人の集まるサロンとしての顔も併せ持っており、女性の髷や衣装などの流行の発
信源でもあった。
このように、吉原は単なる色街ではなく、かつては文化の発信地としての役割も
担っていたのである。「三浦屋」は江戸時代から、それを現代に引き継ぐ唯一の
風俗店。 http://image.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&p=%E5%90%89%E5%8E%9F%E4%B8%89%E6%B5%A6%E5%B1%8B 【江戸時代初期に浮世絵にもなっている「三浦屋」】
江戸時代初期の浮世絵師、有賀常近が描いた絵馬『三浦屋店頭図』。長野県上
田市の常楽寺美術館に重要美術品として保存されている。
有賀常近は初代鳥居清信の門人と見られる。信濃国上田の人。清信の没した翌
年である享保15年(1730年)3月の年紀のある絵額『三浦屋店頭図』を描いてい
る。これは「吉原三浦屋」の遊女を描いたもので、その画風は鳥居派風である。
この絵額は長野県の別所温泉にある北向観音で知られる常楽寺に奉納されてお
り、筆致や賦彩には見るべきものがある。高さは116cm、横幅170cmの大作であ
る。
http://db.umic.ueda.nagano.jp/johogura/datadisp.php?arg_sano=668007
また江戸時代初期の浮世絵師、古山師胤が描いた『中村竹三郎・三浦屋小紫図』
は千葉市美術館に所蔵。 保健所の検査が終わらないので、開店が遅れているようだけど、長引いているの?
それとも、まだ来ていないから? まだ来ていないからだと思う。19日に保健所が来るらしいとの情報。
検査なんか短時間で終わるだろうから、おそらく20日あたりにオープンとなる
のでは? 【吉原三浦屋 本日、19日(金)12時〜 リニューアルオープン】 在籍一覧、出勤表がアップされていないようでは、オープンしたといっても誰
に入っていいかわからないよ。 >>22
女の子募集中らしい。
まだ2人しか在籍していないが、
カバーガールになってる「果里」はいいよ。 >>23
かり?かおり?よく分からんが、フェ○巧い?巧ければ行きたい。 >>24
果里(かり)だよ。フェ○はじょうず。でももっとびっくりすることがあるよ。
絶頂期になんと○を○く。こんな姫は初めて。すごい美人で「吉原角えび本店」
でナンバー1だった姫です。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています